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「はぁ、小物しかいないねー」
ひろの間延びした愚痴が、野口を冷え切った現実に引き戻す。
「そうですね。長居も危険ですし、あと30分にしましょうか」
そう言い切ったあと、野口の視界に一人の男が入って来た。
ひろに負けず劣らず、重心の定まらない出で立ち。同業者だとしたら相当なやり手だが、野口はその顔を最近ではなく、遠い昔に見たことがあった。
――……矢草淳吾。
野口は基本を忘れ、ターゲットを凝視してしまう。瞳に映るのは、くたびれたコートを纏った男ではなく、廊下ですれ違うたびに蹴りを入れてきた淳吾君の姿だった。風が一層強く吹いたのか、悪寒が足元から走る。ただ、この感覚を遠く待ちわびていた気がした。
「あれも小物だねー」
今度は左耳から声がかかった。
ひろは力任せに野口の肩を抱き、だらりと体勢を崩した。傍から見れば、酔っ払いに絡まれているようにしか見えないだろう。
「そうですよね。僕もそう思います」
「それに、まもる君にはまだ早いよー」
「でも、あいつは……」
「引き返せないよ」
ひろは身体を野口に預けたまま、頭だけを上げて真っすぐに視線を重ねてきた。
「窃盗はダメな仕事だよ。そんなこと、俺も、まもる君も、皆が分かってる。だから、それなりの覚悟がいるんだ」
いつもの伸びやかな口調が、そこにはなかった。
野口を諭すように、一言一言を丁寧に区切っていく。
「あの男から財布を盗るのか、盗らないのか。それは社会や環境が決めることじゃない。もし俺が捕まったらさ、正々堂々と自分の意志でやりましたって言ってやるんだ」
暴論だ、と思った。被害者側からしたら、盗るべきだと思ったので盗りました、なんて受け入れられるはずがない。では、何で矢草淳吾から財布を盗むことが罪になるのだろうか。
野口は、明確な回答を持ち合わせていなかった。
法律にダメだと書かれているから。
周りがやっていないから。
社会的制裁が怖いから。
パッと思い付く理由のどれもが、他人の指針に乗った極めてあやふやなものだった。
「覚悟、といえば聞こえはいいけど、要はもう俺に帰り道がないんだ。一人で前に進むしかない」
ひろとは思えない、消え入りそうな声。
「このまま今の仕事を続けるのか。辞めるのか。それも、守の自由な決断だよ」
気付けば、ひろは真横でしっかりと立っていた。壮年後期の男性によって、野口は肩から抱き寄せられる形になっている。
野口は改めて、矢草の影を目で追った。思い詰めた表情に見えたが、それが悔恨に因る可能性は皆無だった。憎い、痛い目に合わせたい。黒ずんだ感情が野口の心にぽつぽつと表出していく。そんな色を薄めるかのように、かつての母親の涙が後を追って流れ込んできた。
幼い野口の前で号泣する母親は、後悔に溢れていた。
一息置いて考え直す。
先天性だとか、後天性だとか、学術を盾とした言い訳にすぎない。
この一歩を、母親のせいにしてはいけない。
母親の優しい部分を受け継いで育ったことを、ふと証明してみたくなった。
「ありがとうございます。僕、やっぱり止めときます」
野口はひろに向き直って、結論を述べた。
「そっかー、じゃあ研修も今日で中止だね。お疲れ様ー」
平時の口調に戻ると、ひろは独りでに歩き出す。
野口は彼の背中にかける言葉を探す。恐らく、もう交わることのない犯罪者。一緒にやり直したいけれど、口出しする権利もない、と思った。
「もう、僕は大丈夫ですから」
確信があったわけではない。
ただ、そう伝えておかなければ気が済まなかった。
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