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岩永宏はそっと個室に身を潜めていた。息を止め、自分の存在を削り落としていく感覚。ベルトを手早く締める金属音が鳴った直後、語気を強めた矢草が真横を走り抜けていく。岩永がここに来るのは、今日でもう3回目だった。
入り口までの距離。扉の軋み具合。床に飛び散った水の量。事前に現場の情報が頭に入っていれば、あえて足音を立てつつ、瞬時に気配を消すなど、造作もない事だった。
肌ざわりだけで安物と分かるコートを和式便所に投げ捨てる。右ポケットから抜いた財布は、案の定薄かった。鍵を外し、気配を探りつつ扉を開ける。
「また、盗りに行くんじゃないでしょうね」
背中から聞き覚えのある声がかけられた。
「何で真っ当な稼ぎ方をしないの? 私は、そんな汚いお金でこの子を養いたくない」
「俺は、お前たちを支えられるほど優秀じゃない。仕事なんて選べないんだよ」
「そんなの、逃げてるだけじゃない。私だって……」
過去を断ち切るように、岩永はバタンっと玄関扉を閉めて外に出た。
矢草淳吾の姿はない。もちろん、野口守も居なかった。
窃盗や詐欺のような軽微な犯罪については、かなり組織化が進んでいる。新しいバディとして初めて顔合わせをした時、岩永は目を疑った。不安と期待の入り交じる中、実演に託けて身分証明書を覗いた。目の前の青年は、紛れもなく自分の息子だった。
離婚をしてからも、岩永の頭から二人との暮らしが離れたことは無い。暇さえあれば、下見という名目で近所を歩き、眺め、ほっと胸を撫で下ろす。そんな日常を繰り返していた。妻が盗みを働いたことを耳にするまでは。
岩永とは全く別の人種だった。常にこどもを第一に考え、努力を惜しまず、悪事になんて手を染めない。そんな彼女を追い詰めたのが自分だと、岩永は悟った。金銭的な余裕がない状態で、恐らくはほんの出来心だったのだろう。
――― 息子を喜ばせたい。
――― あんな旦那でも出来たんだから。
岩永は、二人との関係を捨てる、と決意した。
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