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おじいちゃん。小さな声で、その子が言った。私に聞かれたくないのか小声だったが、まだ慣れていないのかすべて聞こえてしまっている。
「あのね、ひらがな王国、行って来ていい?」
「おや、また誰か喧嘩したのかい?」
「今後は、『め』と『ぬ』だって。すぐ帰るから、行ってもいい?」
「ああいいよ、行っておいで」
「ありがと」
お礼を言った直後、彼はS氏から離れ、廊下の向こうに消えてしまった。ぱたぱたぱた、足音が去っていき。
そこからぷつりと全く聞こえなくなる。走るのをやめたか、あるいは……。
「行ったようですね。ひらがな王国に」
「あの……」
「今では、あの子が、ひらがなたちの喧嘩を止めているんです」
「え?」
「頼もしいでしょう? 『な』もたまに来てるみたいですよ。どう言うわけか……私は会えませんが」
S氏は寂しそうな顔で笑ってみせる。後ろが気になっているようだったが、決して振り向こうとはしない。
私は手にとったカバンを抱きしめ、意を決して言った。
「あの! やっぱり、さっきの話、書いちゃダメですか?」
「さっきのって……あの小説家になりたい理由?」
「はい」
「それはまたどうして」
驚いたように目をパチクリさせるS氏だったが、私は引かなかった。
「どうしてと言われてもはっきりとは言えませんが……このまま私が書かなかったら、きっと、誰にも知られないまま終わってしまいそうで」
うまく言葉にできないのがもどかしい。あふれんばかりの感情はあるのに、喉でつっかえてしまってうまく出てこない。
「それにもし私が『な』だったら、きっと、書いて欲しいです」
「…………」
「それだけです」
S氏は長い間黙ったままだった。目を閉じて、立ったまま。
私は、ずっとS氏の答えを待っていた。
やがて、S氏が目を開ける。
「そうですね」
「では……」
「『な』も、もしかしたら、私が、誰かに言うのを待っていたのかもしれない」
そして、ようやく、S氏は振り返った。廊下の先には誰もいないが、S氏は何か見えているのだろうか。長い長い息を吐いた後、ゆっくりと私を見て、言った。
「いい記事にしてください」
そう言うS氏の顔は、今までみた中で一番輝いていた。
ーー 了 ーー
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