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『あ』と『お』のケンカ
ーー *** ーー
「『あ』と『お』に私がなんと言ったか。それを、教えて欲しいからでしょうかね」
そう答えるS氏の発言を聞いて、思わず私は「あの……私、何か失礼なことをしましたでしょうか……?」と訊いてしまった。
なぜ、あなたは小説家を志たのですか? その質問に対して、先ほどの答え。何か気がつかぬうちにS氏の気を損ねてしまい、それであんな答えをしたのかと思ったのだ。
ビクビクする私に対し、S氏は吹き出して笑った。
「いやいや、これはすまなかった。大丈夫ですよ、お嬢さん。何も怒ってはいないし、むしろ話しやすくて、困ってしまっていたところだ。ついうっかり、私が本当に小説家を目指した理由を話してしまった」
「本当の……?」
S氏がテーブルに置かれたコーヒーを飲む。つられて私も一口飲んだ。
「小説家を30年も続けるとね、いろいろな人からそう言う質問を受けるんですよ。その度に私は『本が好きだったから』とか、『あの話をみんなに披露したかったから』とか、本音ではないけれどある程度の真実を話していたんだ」
今年、齢60を迎えるS氏。同時に小説家30周年の節目でもあるので、うちの雑誌で特集を組もうと言うことになり、私がインタビューにS氏の家を訪れたと言うわけだった。
予め写真は手渡されていたものの、実際にあうS氏は写真で見るよりずっと穏やかで優しく、ついうっかり実家のおじいちゃんと話している気分にさえなってしまうほどだった。
「だから、その質問の答えを改めて言うならばは、そうだな……」と考え出すS氏。私は慌てて「あの、先ほどの答えですけど、もう少し詳しく知りたいです!」と食い下がった。
「それは構わないが……多分記事にはできないよ?」
「大丈夫です」即答してしまい、まずいかなと心の中で思いながらも、口は止まらなかった。「先ほどの答えは『本が好きだったから』と書いておきますので」
S氏は少し面食らったようだったが、やがてすぐに朗らかに笑った。
「そうだね。じゃあ、もう少し話すとしようか」
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