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 朝の日差しがレースのカーテンをフィルターに、やわらかい後光のように室内を照らしていた。ベランダの真正面は隣のアパートなので、日によっては雨なのか曇なのかすらわからないが、今日は間違いなく晴れだ。日差しに照らされた空中の埃は、注視しても動いている事を確認できない。時間が止まったのだという錯覚はどこかの犬の鳴き声で醒め、埃もしばらく見ていると少し動いた。  優子は既に起きたらしく、僕一人布団にくるまり埃を眺めている。9時か10時頃だろうか。社用携帯に部下からの報連相的なメッセージが届いており、それに「おつかれ」とだけ返した。    ここは彼女のアパートの部屋だが、正確には僕の部屋だ。でもどちらでも良いと思っている。毎月の家賃の8割は、ほとんど利用しない僕が支払っているが、それで良いと思っている。  散乱した僕の漫画本や衣類はいつ戻ってもその場所にある。前回空けたビール缶すらそのままだ。僕の就職を機に5年前、二人で住み始めたこの部屋を、ほとんどそのままの状態で保っていてくれる事は、故郷のない僕の心にとって支えになっているかもしれない。  彼女は帰ってくるとコートを脱ぎ、それを座椅子の背もたれに掛ける。結っていた長い髪をほどくと、紅茶を入れるためかポットで湯を沸かし始めた。 「病院、行ってたの?」  朝のこの状況、彼女の午前中の帰宅をベッドの中で迎えるという状況は決して珍しい事ではなく、こういう時はたいてい彼女は病院へ行っているのである。 「うん、この前右手かばってるみたいだったんだけど。今朝来てたから。」 「そっか、どうだった?」  僕は低血圧と二日酔いの体をやっと起こし、煙草に手を伸ばした。 「足滑らしたんでしょうねって、お医者さんが。ほんとにどん臭いんだよねー。」 「そっか、たいした事なさそうで良かった。」  僕は着古したダウンを羽織り、ポケットにライターがある事を確かめると、玄関から外へ出た。  玄関を出ると目の前は国道で、道を渡るとすぐ老人ホームがある。その脇に山へ向かう坂道があり、道沿いには民家が並び、坂道を郵便配達のカブが下ってくるところだった。  老人ホームの広葉樹は暖冬のためかまだ葉を残していて、小春かと思わせる暖かい風に揺れながら、アスファルトに木漏れ日を映していた。  僕は頭上で右手首をつかみ、大げさに伸びをした。  良い朝だ。山で生まれ山で育った僕にとって、大阪の人と人の距離が物理的に近い生活は窮屈で、ここに戻ると摩耗した神経が本来の形に戻っていくのが分かる。ここは生まれ故郷なのではないが、学生時代を過ごし彼女と出会ったこの田舎街は、僕が唯一帰る場所となっている。国道沿いだが交通量は大阪とは比べものにならないくらい少なく、ほぼ静寂で、今現在聞こえる音も郵便配達のカブがギアを変えながら走る音だけだ。  僕はショートホープに火を灯すと、ゆっくり煙を吸い込み、少し間を置いて吐き出し、煙の行方を眺めていた。  隣の部屋から物音が聞こえ、人が出てくるのだとわかった。僕は隣の部屋の玄関に背を向けて、関心のない素振りを装い煙草を咥えた。  しばらくがさごそと音が聞こえ、ついに扉が開き、閉じ、すぐ横の階段をハイヒールが降りた。その間はほんの10秒程だろうか。なお、この一部始終は見ていない。  先に大阪の人の物理的な距離感が苦手だと書いたが、これはあくまで物理的な距離の事であって、僕は決していわゆるコミュ障ではない。あの狭い街に、この田舎街の約二倍の数の人々が暮らしているという事実に、田舎育ちの僕は辟易するのだ。ただ隣人と積極的に関わりを持つようなガサツな人柄でもなく、話かければそれなりに対応しますよ、といった具合だ。  煙草を灰皿代わりのビール缶に捨てた。初冬の割に暖かい日だとはいえ、Tシャツの上にペラペラのダウンを羽織った姿では、少々心許ない。  翻したつま先の先には、髪の毛とも綿屑ともわからない黒色の毛が、湿ったあと乾き、ところどころ束になって床にこびりついている。  僕は靴底を滑らせてそれを更に太い束にしてみたいと思ったが、環境が変わると来なくなるから、と彼女が言った事を思い出し、やめた。  
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