それは、近くて遠く、甘くて痛い

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*  傘の雨を払いながら店に入ると中は煙草の煙で白く、むっとしていた。顔なじみの店員に迎えられ、お連れ様お待ちですよと案内される。  紺のポロシャツを着た周がカウンターの向こう端に見えた。 「亜紀、遅いよ」  腕の時計を確認すると六時を三分すぎたところだった。  空いていた隣の席に鞄を置き、手渡されたおしぼりと交換に生ビールを注文する。 「珍しいね、日曜日に電話してくるなんて。何かあったの?」 「今日、俺、誕生日」  頭の中で日付を確かめた。 「……あー! 忘れてた、ごめん」 「亜紀ももうすぐだろ。誕生日同士が近いから絶対忘れないって言ったのお前じゃん。てゆーか、亜紀から誘ってくれるの待ってたんだけど」 「ごめん、ごめん。自分の誕生日すらもうすぐだってこと忘れてた」  そう言って笑うと、周も笑う。  友達数人で祝った年もあれば、周が誰か特別なひとと過ごした年もあった。今日のように二人で周の誕生日を迎えた年も、何回かあった気がする。それがいつの、いくつの時だったかまで覚えてはいない。いや、きっとちゃんと思い出せばすぐに思い出せる。忘れたふりをしているのは、そんなことを女々しく覚えているのは不毛だと忘れる努力した結果だ。  しかし今年はその誕生日を本当に忘れるくらいで、案外、周への想いはくすぶっている間にいつのまにか私の中で昇華しつつあるのかもしれない。  好きな人が好きだった人に変わっていく変化は少し切なくもあり、同時に安堵でもあった。 「改めて。周、お誕生日おめでとう」  運ばれてきたビールを手にとって、すでに半分にまで減っていた周のグラスに当てると、ジョッキの分厚いガラスが鈍い音をたてる。  プレゼント代わりに今日の飲み代をおごるという話で落ちついた。 「三十路かー。ついに大台乗ったね、旦那」  私の好きなものが、周によって既に注文されていて、どんどん運ばれてきた。ここの自家製さつま揚げと蓮根饅頭は絶品なのだ。 「早いよなぁ。三十って、もっと大人かと思ってたけど、そうでもないなぁ」 「私も、昔は三十までに結婚しようと思ってたのに……。全然ダメだわ」 「俺んとこも、結婚しろ結婚しろってうるさくてさ。ほら、タケんとこに子供ができただろ? 羨ましいらしくて。孫の顔が見たいってさ」 「あー、親に言われ出すと辛いよね。だって、孫どころか、花嫁候補もいないんでしょう?」 「絶賛募集中」 「道のりは遠いねぇ」 「誰かいい子いない?」  その言葉に鼻の奥がつんと痛くなったのを蓮根饅頭の餡の上に乗っていたわさびのせいにしてさらりと答える。 「周にはもう紹介しつくしたよ。それに、結局、どの子とも上手くいかないじゃん」 「母さんなんてさ、亜紀ちゃんにお嫁さんになってもらいなさいとか言う始末」 「えっ」  まさかの姑関門突破に、声が浮わついたのもつかの間、 「母さんも冗談キツイよな」 「ほんと! おばさんってば、妥協して私だなんて失礼しちゃう!」  周が含みもなく笑うので、一緒になってあけすけに笑って見せた。  その流れを上手く汲んで、仕方ないから花嫁に立候補してあげてもいいよとか、私とだったら案外上手くいくと思うよとか言えばよかったとすぐさま後悔したが、十年育んできた友情歴が頑なにそれを阻んだ。  それに、どうせ伝えたところでさっきみたいに玉砕確定の返事が返って来るだけだろうし、もしその言葉が本気なのだと知られてしまったら、ぎくしゃくして今の関係すら失ってしまう。  そんなの、今まで頑張って友達をやってきた意味がない。
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