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どこかで雨が降ったのだろう、網戸から入り込む風はひんやりしていた。
彼氏でもない自分が、こうして沙月の誕生日を祝えるのはいつまでだろうか。
それを思うと、すぐそばにある沙月の唇から無性に目が離せなくなった。理性的なことを考える間もなく、俺はゆっくりと、顔を近づけていた。
しかし、すんでのところで、ずるくないか、裏切ってしまっていいのか、と理性的な俺が、本能的な俺に問いかける。
ここでこんなにも無防備に眠ってくれるのは、きっと信頼されているからだ。
それに、贅沢を言わせてもらえば、どうせ同じキスなら沙月がしっかり目を開けている時にしたい。こんなふうにこっそり盗むようにするキスは、ずるいのではなく、空しい。
理性、現実、意気地のなさや、つまらない意地がごちゃごちゃに混ざって、それは深呼吸ともつかない溜息となって落ち着き、結局、鼻と鼻が触れ合うほどの距離から先に進むことはできなかった。
音もなく、顔を離そうとした時だった。
「……キス」
すぐ下から声が聞こえる。慌てて身体ごとすさったが、逆に引っ張られた。
「……さ、沙月?」
その手がTシャツの裾を掴んでいる。しかし、目は閉じたままなので寝言かと思ったが、その言葉にははっきりと意思があった。
「……キスしてくれるんじゃないの?」
「え…と…、その……」
驚きと恥ずかしさと焦りと言い訳が頭をぐるぐる回る。
「私にキスしようとしたんじゃないの?」
「……ごめん。……しようとした。ごめん……」
何よりも大事なひとなのに、だからここまで我慢してきたのに、何を浮かれて、軽はずみにキスなどしようとしてしまったのだろう。
大事に積み上げてきたものが一気に崩れて行く音が聞こえて、泣きたくなった。
その時、沙月が、がばりと起き上がった。
「なんで謝るの? すごく嬉しかったのに……!」
怒ったように睨んでくる。その瞳には涙が溜まっていた。状況が、沙月の言葉の意味が、よくわからない。
「私、ずっと待ってたんだよ」
ついに涙がひとしずく、こぼれた。
「こうして新と二人でいるとき、いつも期待してた。待ってた。でも、何も言ってくれないし、私が泊まっても何もしないし、私が彼氏欲しいとか言っても興味なさそうだし。やっぱり私はただの『友達』なんだって、女として見られてないんだって、思って……。それでも新に彼女ができるまでは一緒にいたかったから、側にいれるなら『友達』でもいいって……」
そう訴える沙月は、俺の知っている沙月ではないような気がした。
「私、ずっと、ずっと、新が好きだった」
鈍くて、無邪気で、気持ちに融通がきかなくて、まだ恋に恋しているような、そんな女だと思っていた。
すっかり恋に目覚めていたというのだろうか。
恋と友情のはざまで、苦しんでいたというのだろうか。
「新は? さっきの……私のこと好きと思っていいの?」
「俺もずっと、ずっと好きだったよ。……でも、怖くて言えなかった」
なんとか絞り出した声は震えていた。
「キス、していい?」
沙月が、こくん、と真っ赤な顔で頷く。
再び、ゆっくりと顔を寄せる途中で、思い出したように付け加えた。
「沙月、誕生日おめでとう」
結局、その言葉の最後はキスに溶けて言葉にはならなかった。
触れ合うだけの長いキスの中で、ふと用意したプレゼントのことを思い出した。改めて、『彼氏』として沙月の望むプレゼントを選びに行ったほうがよさそうだ。
唇を解放する。
さすがに鍋つかみではなぁ、と嬉しい苦笑いを必死に堪えて、沙月を初めて腕の中に抱いた。
終
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