これは、近くて遠くて、切なくてずるい

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 沙月(さづき)からメッセージがきたのはその日の夕方だった。 『今から(あらた)の家行っていい?』  文末に悲しい表情の絵文字がついているところをみると、大方、明日の大切な日に一人でいることを嘆いているのだろう。  ベランダの網戸から湿った匂いの風が部屋に迷い込む。また、ひと雨くるかもしれない。  こうなることを期待していたわけではない。  その証拠に、誕生日のケーキは用意していない。メッセージに気づいたのだって受信してから十五分も経ってからだった。  もっとも、今日明日と予定は何も入れていないし、冷蔵庫の中身をいつもより少し充実させたりはしていたけれど。  近所のケーキ屋に行くべく部屋の鍵を手に取り、足にサンダルをひっかけた。  手では沙月に返信する。 『了解。晩メシ作っとく』  精一杯そっけなく返したはずの文字がやけに浮かれているように映る。  込みあがる笑いを抑えきれず、どうせ誰も見てやしないと、開き直って思う存分にやにやした。今にも降り出しそうなグレーの雲も気にならない。  アパートの階段をリズミカルにかんかんと音を鳴らして降りる。  道すがら、鞄に眠っているプレゼントのことを思い出した。  誕生日に沙月が欲しいものは何度も聞いて知っているし、明日に寄せる期待も知っている。  しかし俺は、悩みに悩んで、今年のプレゼントを『鍋つかみ』にした。つい先日、沙月が素手でオーブンレンジの鉄板をつかんでやけどをしたからだ。  自身のあまりの不器用さに沙月はしばらくショックを受けていたから、その失敗を再び思い出させるようなプレゼントにからかわれたと怒るか、はたまたさらに落ち込むかのどちらかだろう。  鍋つかみがあればもうやけどをすることもなく、やけどをしたと言ってうちへ助けを求めに来ることもなくなってしまうなと思いながらも、今の自分の立場にふさわしいプレゼントだと納得し、水たまりを飛び越える。
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