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「……きっと、悪い夢を見ているんです。いろっち先輩、お願いだから帰りましょう?」
刹奈が顔を強張らせながら彩羽を一瞥する。しかしながら彼の返答は、「いやだよ」の一点張りであった。
「お母さんを置いてったらだめだもん」
「でも……」
「さみしいでしょ? 一人にしちゃいけないんだから」
幼い姿をした彩羽は、刹奈をぼんやりと見つめたまま機械的にそう話す。それを聞いた刹奈は苦い顔をする。
采炉市で二人、ベンチに座って話したことを思い出す。彩羽もまた、刹奈と同じく母を喪った人であるとあの時知った。だから彼が言うお母さんは、今ここに居るはずもないのだ。
「だって、いろっち先輩のお母さんって――」
ここに居るはずがないんだよ。
その言葉を思わず零しそうになった時、幼い声が弾けた。
「うるさいな!!」
パリン、と何かが割れるような音がした。膝下まで満ちる湖の水の上を、白い波紋が駆けていく。
薄ぼんやりと、霧が僅かに晴れる。向こうに立っている女性が、静かに彩羽だけを見つめていた。
「わかってるよ、お母さんはもういないって! でも、それでも! ここに居れば会えるんだ! ずっと抱えていた罪悪感も、ここでなら感じなくて済むんだ!」
幼い声と青年の声が入り混じる。驚いたように猫目を見開く少女に向けて、彩羽は堰を切ったように言葉を吐き出していく。
「ずっとずっと、母親の命を奪って生まれてきた自分が憎かった! でも誰も責めてくれなくて、悪くないよなんて励ましもして! 母親がいない自分を哀れんで、気を遣ってくるような人ばかりで……!」
自分が今、子供なのか大人なのか。彩羽にはもう分からなかった。
「そんな周囲の優しささえ素直に受け取れない自分が嫌だった。母親の代わりになろうとする彼女たちが怖くなった! ……それもこれも、全部俺が生まれてきたせいだった」
滲んだ視界の中で、たった一人の後輩が苦しげに顔を歪めてこちらを見ている。同情も何もない、ただこの叫びを受けて心を痛めているような顔だった。
自分を受け止めてくれる彼女でさえ、己は傷つけてしまうのだ。
「――俺は、生まれてきちゃいけなかったんだ!」
静寂。
バリン、と再び何かが砕ける音。それと同時に、息をのむ音。どちらのものかは分からない。
彩羽は肩で息をして、そのまま頭を抱えて膝をつく。幼い子供が蹲るようにして。水面が腹部の辺りでゆらゆらと波紋を生み出した。
「……」
水面が大きく揺れた。ばしゃりと水が跳ねる。
ともすれば、彩羽の胸倉は思い切り誰かに掴まれる。
涙が滲んだ光の瞳が、そこにはあった。
「生まれてきちゃいけない人間なんて、いるわけないじゃないですか!!」
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