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籠った音が耳奥まで鳴り響く。それを認識した途端に、沖彩羽の意識は僅かに浮上した。
眠りから覚めるかのような感覚だった。否、これから眠りについていくのかもしれない。そんな曖昧な感覚が、彩羽を包み込んでいる。
何でも良かった。
この温もりに包まれて、全てを忘れて眠っていたい。家族が誰一人欠けることなく揃い、悩みも不安もないこの暖かな日常の中に生きていたい。
なぜならこれが、彩羽の望んだ世界そのものであるからだ。
――……い。
凪いだ水面のような意識に、雫が落ちる。震えた水面が意識を不安定にさせていく。薄暗い海の中に、薄明のカーテンが揺れていた。
――……先輩
泡沫の音のその向こうで響く何かがある。何者かが、彩羽の手を引いていくような感覚がしている。
邪魔をしないで。
このまま、夢の中に居たいのに。
―――いろっち先輩!!
鮮明になった少女の声に、彩羽はハッと目を覚ました。
飛び込んできたのは穏やかな日常でも深海の景色でもなく、灰色の曇天だった。深い霧がかかる湖の中に自分は立ち尽くしている。膝下まで湖の水が揺蕩っていて、彩羽の周囲には硝子細工のように美しい蓮の花が無数に浮かんでいた。
顔を上げて辺りを見回す。
濃霧にぼんやりと浮かぶシルエットに目を凝らせば、そこには新緑を携えた大樹が聳え立っている。
その木の根元に座るのは、薄青の長い髪を持った女性。彩羽の母であった。彼女の周囲では、何人かの男性が幸せそうに眠りこけている。
――いろっち先輩! 聞こえますか!?
濃霧の向こうからまたも声は反響する。これは、誰の声だっただろうか。意識が妙にはっきりしない。
掌を見れば、彩羽の目には幼子の小さな手が映りこんだ。自分は今子供の姿をしているようだ。そんな子供の自分に、果たしてこの声の知り合いはいただろうか。
――聞こえないんですか!? ……なんでだろ、夢の中だからかな。
独り言が流れてくる。小さな呟きのはずなのに、なぜか己の耳奥にまでその声は届いた。
聞きたくない。
もう誰も、現実世界を突きつけないでくれ。
――今、そっち行きます!
水面が揺れた。
浮かんだ蓮が不安定に揺らぐ。ばしゃばしゃと水を割る音が聞こえ、濃霧にうっすらと人影が滲む。時折、痛そうに声をあげるその誰かは、迷わずこちらへと向かってきているようだった。
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