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話は数時間前にさかのぼる。
セレファイスの都に吹く風には、きょうも不凋花の花びらが混じっていた。
都をかこむ長大な城壁の上、静かにたたずむのは多くの青銅の彫像だ。壁外をにらむ像は旅人と外敵の判別を意味し、壁内を向く像は、町をゆく人々を無言で見守っている。
都の東側を眺めた先には、万年雪を頂くはるかなアラン山がそびえ、西側に青く広がるセレネル海の港では交易のざわめきが日々途絶えない。
そして、都の中心部。トルコ石でできた神殿を越えた先、無数の光塔に守られてきらめく王城こそが〝七十の歓喜の宮殿〟だった。薔薇色の水晶に飾られたそこで、クラネス王は長きにわたって民の安寧を祈っている。
美しきセレファイス……光の都。
だが、光の影にはつねに闇がある。
レンガ造りの住宅地区、とある小さな民家の地下室……
地下室の闇の中、その小柄な人影は、一人なにをしているのだろう。まとったローブのフードは目深におろされ、顔は見えない。その片手は暗闇にかざされ、また反対側の手にはぶ厚い書物が開かれている。四隅を頑丈な金属板で補強された革装丁の書物だ。
その魔道書をさいしょに〝ドール讃歌〟と呼んだのが誰かはわからない。わかっているのは、魔道書に五五五項目にもおよぶ呪文が記され、とてつもなく恐ろしいということだけだ。本書のひとつの趣旨は〝なにかを〟〝呼び出し〟〝使役する〟ことにある。
あるはずのない風に揺れた蝋燭の光は、地下室の人影を魔物のようにゆがめた。その生ぬるい風はまるで、人影がかざした痩せた手の下、床に描かれた魔法陣から吹い
たようにも感じられる。魔法陣……白墨で結ばれた五芒星を、一面おびただしい呪文の群れで囲んだデザインだ。
まごうことなき〝召喚の儀式〟だった。
いったいなにを呼び出すつもりだろう?
「てぃび・まぐぬむ・いのみなんどぅむ・しぐな・すてらるむ・にぐらるむ・え・ぶふぁにふぉるみす・さどくえ・しじるむ・まきな」
人影が口ずさむ呪文の声は、意味不明なうえ聞き取れないほど小さい。足もとには魔法陣、片手には魔道書、あいた片手にはなにもなし……
いや、なにもない片手に、かすかに稲妻がほとばしったではないか。
その稲妻の輝きは、呪われた魔法の力……〝呪力〟によって虚空から生じたものだ。
吹く風が急に勢いを強め、魔法陣が輝き始めたのはそのときだった。
古代の魔道書にのっとった魔法陣に、呪文の言葉、そして召喚士の呪力。みっつの要素は満たされた。
まばゆい輝きとともに、召喚される……おぞましい異世界のそれが。
光と風はおさまった。
同時に、魔法陣の上で聞こえたのは硬い金属音だ。
召喚士の足もとに、なにかが落ちている。
いままでそこに、そんなものはなかった。召喚された物体……てのひらほどの大きさのそれは、黒い未知の金属でできており、円盤状のその形には明らかに異世界の何者かの手が加わっている。すくなくともセレファイスで創造されたものではない。
「…………」
魔法陣から謎の物体を拾い上げると、召喚士は邪悪な忍び笑いをもらした。
召喚士が呼び出したそれは、いったい何なのか? どんな災厄の力を秘めているのか?
「!」
地下室の扉が開け放たれるのは、突然だった。
光を背に踏み込んできたのは、たくましい甲冑の人影だ。慄然たる召喚士の所業を、セレファイス軍の兵士が断罪しに現れたらしい。
兵士はささやいた。
「悲しそうに笑ってんなぁ。まだ召喚やってんの? メネス?」
召喚士……メネス・アタールは、溜息まじりに答えた。
「邪魔しないでほしいね、エイベル。なんかでたよ?」
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