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鍼灸整体整骨院〝サーヘイ堂〟
院は、セレファイスの戦士寮のもよりという好立地に店をかまえている。たえまない鍛錬や日々の労働で疲労した患者により、それなりに忙しい。
メネスはここで下働きしていた。
院長のオーベッドの厳しさときたら、涙ものだ。
「おいメネス! ぼうっとすんな!」
大柄なオーベッドに足を蹴られ、メネスは思わずよろめいた。シーツやタオルでいっぱいになった洗濯かごを取り落としていたら、もっと恐ろしい目に遭っていたはずだ。痛みをこらえ、メネスは答えた。
「すいません……」
「メネス! タオルが切れてっぞ!」
「すぐお持ちします!」
「とっとと新しい鍼もってこい!」
「いますぐに!」
掃除に洗濯、受付、かんたんな書類整理……驚くほど安い給料。人生だけでなく、職場ですらメネスの立ち位置は暗がりだ。本腰をいれて按摩師の勉強をしようにも、客に直接触れる機会ひとつメネスには与えられない。
地呪の才能……メネスの生み出す適度な電撃が、鍼や指圧の届かない凝りに効くことは皆知っていた。だが院長や同僚いわく、そんなものは子供だましの邪道もいいところだという。それもそうだ。長年かけて磨いた腕と技をめあてに訪れる客が、ろくに苦労もせずに体をよくして帰っていくなど見過ごせるはずもない。
メネスならではの気力のなさにも問題はある。院長に意見や提案をする根性はなく、職場を変えたりする度胸もない。思い切って独立して開業しようにも、こんどはメネス自身に知識や資金等の不足がつきまとう。
なのでこうして虐められながらも、メネスはいまだこのサーヘイ堂にしがみついていた。
「受付早くしろ!」
「すぐ行きます!」
「家に帰りたいって思ったな、いま!?」
「すぐにでも! ……あ、いえ」
飛んでくるオーベッドの拳から、メネスは身をすくませた。反射的にメネスの漏らした本音を聞き流せるほど、オーベッドは気の長い性格ではない。
そのときだった。
「ちょっといいかな、院長?」
客室からだれかの顔がのぞく気配を察し、オーベッドの拳は止まった。メネスの鼻先すれすれから戻した拳を、いかつい顔の前で咳払いに使う。へりくだった作り笑いを浮かべながら、オーベッドは答えた。
「なんでやしょ? ニコラさん?」
薄暗い個室からふたりを眺めるのは、端正な顔立ちの若者だった。
サーヘイ堂の常連客、ニコラ氏だ。
見た目は若いが、ニコラはひどい筋硬症をわずらっている。体じゅうがいつもガチガチに固まっており、指圧や鍼もろくに効かない。いつしかニコラは陰ながら、石人間というあだ名でさえ呼ばれていた。
ところで、ニコラが持っているのは肩こりだけではない。売れ筋の大手情報組織に属しているらしく、巨大な資産を有しているとの噂だ。数カ月前に初めて来院して以来、現にニコラはサーヘイ堂最高のサービスを受け続け、それに見合った気前のよい支払いを行っている。
そんな上客を前にしては、暴力的な院長も手で胡麻をするしかない。重たげに首と肩を回しながら、ニコラはほほえんだ。オーベッドではなく、メネスへ。
「やあ、メネスくん。きょうも頑張ってるね」
「ええ、まあ……」
「なんだか顔色がすぐれないな。なにか理不尽なことでもあったとか?」
ガラス球のようなニコラの瞳に見つめられ、オーベッドはしゃちほこばった。この金持ちは、あいかわらずなにを考えているかわからない。初診のころから、このようになぜかメネスのことがお気に入りなのにも疑問を感じる。
落ち着き払った声で、ニコラはつぶやいた。
「院長」
「へい?」
「申し訳ないんだが、ちょっと按摩師を変えてもらってもいいかな?」
「人を、変える? 院長のあっしから、だれにです?」
「メネスくんにだ」
「「え!?」」
このときばかりは、オーベッドとメネスの驚きは一致した。
最後まで対応した按摩師に大きなチップを落とすことで、ニコラは有名なのだ。そしていまは、院長のオーベッド自身がじきじきにニコラを対応している。理由のない途中交代など、オーベッドの金欲と誇りが許すはずがない。平身低頭ながらも、オーベッドは食い下がった。
「残念ですが、旦那。こいつはただの雑用係です。まっとうな按摩師でもない者に、大事なお客を任せるわけにゃいきやせん。さ、お部屋にお戻りくだせえ」
「すこし説明不足だったようだね」
メネスから陰になる形で、ニコラはオーベッドの手をそっと握った。手渡された金貨の重みに、オーベッドの呼吸が止まる。そこへ、ニコラの妖しい耳打ちが重なった。
「まだ足りないかな?」
「いえ、しかし……」
「私がこの最高級の角部屋を予約した理由を、院長ならわかってくれるはずだよ。ここだけじゃない。前の部屋も横の部屋も借りきって人払いし、私だけのゆとりの空間を作ってある。私と、メネスくんのね。空き部屋すべてに対して、所定の倍以上の料金を支払ってもいるつもりだ。わがままばかり言って申し訳ないね、いつもいつも、ほんとうに」
「…………」
金貨を握りしめた拳を、静かにポケットにしまうのがオーベッドの答えだった。しどろもどろの様子で立ち尽くすメネスへ、すれ違いざまに囁く。
「ご指名だ、メネスくん。話はまたあとで、じっくり聞かせてくれや」
「え、それはどういう意味……」
またたく間に閉められた扉に、メネスの質問は跳ね返って消えた。
光量の少ない個室に残されたのは、メネスとニコラだけだ。
店のサービスの限界を知りながら、それ以上を求めてくる客はどこにでもいる。メネス自身もそれは承知の上で、このサーヘイ堂での下働きに日々耐えていた。中性的ともいえる少年と、資産家の美青年が個室にふたりきり……起こることといえば、おのずとひとつに限られる。悲しいが、これもひとえに商売だ。
戸惑いの混じった表情で、メネスはニコラを上目遣いにした。
「やればいいんですね……? いつもの、あれを?」
「ああ、たのむ」
部屋に走ったのは、まばゆい電光の輝きだった。
愉悦の声を漏らすのは、ベッドに仰向けになったニコラだ。その腰に置かれたメネスの両手からは、間断なく呪力の電撃が放たれている。
「ききき効く効くきき効く効く!」
「ほんと、好きですねえ……」
恐ろしい地下世界の魔物をも気絶させるといわれるメネスの地呪……これによる肩腰のマッサージをニコラはやたらと好んだ。おそらくは人生の生きがいと呼べるほどに。それだけのために、ニコラはサーヘイ堂へ足しげく来院していると言っても過言ではない。ふつうの人間なら天国の階段を何十段も駆け上がるレベルの電撃を浴びてはじめて、その凝りはほぐれるとニコラは説明する。
やがてメネスの呪力が底をついたころ、ベッドには煙をあげて気味悪く痙攣するニコラが残った。満ち足りた面持ちであえぐ。
「ありがとう……全身に力がみなぎるようだよ。やはり、メネスくんのこれがないと始まらない」
「どういたしまして、と言いたいところですが、ニコラさん。このことは、院長にだけはぜったい秘密だって約束だったじゃないですか。あとでいったい、どんな嫌がらせが待っていることか……」
「こそこそ君に会いに来るのに、いいかげん嫌気がさしていた。やつが不在のときばかり見計らうなど愚の骨頂。時間の無駄。肩こりで死んでしまう。きみ自身が私のもとを訪れてくれれば、こんな大それたマネをする必要もなかったんだがね?」
呪力切れの疲労でイスに腰掛け、メネスは背を丸めた。
「何度もご説明しているとおりです。院外での単独業務は許されてません」
「これほど素晴らしい才能を持ちながら、なぜきみはあんな無能に従う?」
「応援は嬉しいですが……ぼくへの期待は、期待外れに終わると相場は決まっています」
「どうしてそう自分を否定するんだ。きみへのオーベッドの仕打ちを見て、私はいつも心を痛めている。悔しくて仕方ないだろう?」
「悔しさを通り越して、心が冷たくなる気分ですよ。仕事がある日は正直、毎朝起きるのも体が重いです」
「ああ、そうそうにこの院と手を切らないと、心ばかりか身まで病んでしまうぞ」
「手を、切る? 辞めるということですか?」
目を伏せて、メネスはため息をついた。
「頭は悪い、体力もない。こんなぼくを雇ってくれるところなんて、他にどこにも」
ニコラが静かにさしだした片手にも、メネスは気づかないふりをしている。それを知ってもなお穏やかな表情で、ニコラは告げた。
「何度めになるか覚えてないが、また言うぞ。私のもとで働かないか?」
闇の淵に立つメネスにとって、ニコラの誘いは救いの導きに等しかった。
しかし、やはりニコラにも決定的なある認識が欠けている。
信頼を置いてくれる数少ない人物であるニコラには、口が裂けても言えない。メネスはこの仕事が大嫌いなのだ。
メネスの夢は、あくまで召喚士。そしてニコラはたぶん、メネスのことを便利な按摩師あたりとしてしか見ていない。ちがう。サーヘイ堂はただの食いぶち。もしニコラの希望どおりの働きをすれば、いまのような日々の召喚の鍛錬もできなくなるはずだ。それは自分の存在意義となる大切ななにかを切り捨てる行為のようにも思えて、とても嫌な予感さえする。
夢と現実の区別をつけるには、メネスはまだ若すぎた。
だからいつも決まって、メネスはこんなふうに希望の光をはぐらかして終わる。
「ちょっと……考えさせてください」
ぎこちない微笑みを残して、メネスは立ち上がった。
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