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その日は朝から具合が悪かった。
昨夜遅く食べたラーメンがいけなかった、山盛りの行者ニンニクと豆板醤が弱っていた胃にとどめを刺したのだ、夜中何回もトイレに行き体力を削がれてしまった。
なんとか起き上がり駅まで着いたが、具合が悪くなるばかりでそのまま引き返した。会社に休みの連絡をした後も調子は良くならず、結局病院へ行くことになった。部屋を出たのは11時過ぎのことだった。
部屋の玄関を出ると、ちょうど隣の503号室から人が出てくるところだった。相手もこっちに気づいて一瞬体の動きを止めると、そのままうつむいた。
自分は毎日帰りが遅いため、どんな隣人がいるのかを知らない。普段、人と付合いがないのもあるが、そもそも他の住人と顔を会わせる機会がないのだ。
隣の部屋から出てきたのは、痩せて眼鏡をかけた青年だった。年はまだ若い。学生だろうか、青白い顔をしている。
「おはようございます」
もう昼前だったが、こんな言葉が咄嗟に出てしまった。
相手はゆっくりこっちを振り向き返事をした。
「おはようございます、真木さん・・でしたっけ」
暫く間をおく。この予期せぬ言葉に自分は一瞬不意を突かれていた。このマンションでは、お互い同士、名前を呼ぶことはまず無いからだ。いつも無難に挨拶だけして通りすぎるだけだ。うちのドアの郵便受けにも載せてないはずなのに、なぜ彼は名前を知ってるのか。
「前に、お会いしましたっけ」
思わず尋ねる。
言葉の意味を察したのか、男は言う。
「すみません!以前郵便物から宛名が見えたんで、あなたの名前を知ってるんですよ。私、紺野と申します。」
若い男はアハハとおどける。
隣にこんな男が住んでいるとは知らなかった。はじめて会う顔だ。
「学生さんですか?」
尋ねると男は答えた。
「はい!真木さんは、これからお仕事ですか」
「今日は休みです。それでは・・」
そう言って立ち去ろうとしたのだが、男に呼び止められた。
「ちょっと待って!でも今朝、一度外に出なかったですか」
「今朝?一度出ましたけど。」
「やっぱり!そうでしたか」
男はそう言って満足げに嗤った。
「よくわかりましたね、出ていくところを見ましたか」
思わず聞く。
「いやあ、朝、部屋を出るような物音がしたもので。いろいろあって、最近は用心深いんですよ」
男はそう答え、まだしばらく話をしたそうな雰囲気だった。しかしいい加減、自分も病院に行かなくてはならなかったため、会釈だけするとそこで男とは別れた。
病院に着くと、思いのほかすぐに診察は早く終わった。医者が言うには胃炎で、不衛生なラーメン屋でニンニクにでもあたったのだろうとのことだった。その後、抗生物質と胃薬を貰って病院を出たときは、もう午後3時を過ぎていた。
昼飯を食べ損なったのでファミレスでも行こうかと思ったが、面倒だったので近くのコンビニで弁当を買って帰ることにした。
自宅マンションに帰ってきて玄関に入ろうとすると、裏のごみ集積場になにやら人影が見えた。気になって見ると、昼前会った隣室のあの青年がぼんやり立っていて、こっちを見ている。
「あ、お帰りなさい 真木さん」
明るい笑顔で青年は言う。
「こんにちは、何してるんですか」
声をかける。
「いやあ、捨てたはずのない物を探しに来たんですが、やはり無いですね。跡形もない」
青年はうなだれて言う。
??
捨てたはずのない物?意味がわからない。
「捨てたはずのない物、ですか。」
「ええ!先週、僕のコンポが勝手に捨てられてたことがあったのでもしやと思ってここに来てみたんですが無かったです。まったく物騒ですよこのマンションは。いまどき防犯カメラも壊れていて、ずっと放置されてるんですからね……真木さんも、防犯には気をつけてくださいね。」
「ええ・・」
「勝手に部屋に入られるんだから、まったく油断も隙もあったもんじゃない!」
青年はそうブツブツ言いながらマンションを出ていってしまった。
何やら訳もわからず会話は終わり、詳しい話は聞けなかったので、彼の言っていることの意味が自分は分からなかった。
その日の夕方。突如呼び鈴を押す者がおり、午睡から目を覚まし玄関に向かうと彼の声がした。
「ま、真木さん!真木さん!いますか?!」
ドアの向こうから怯えた声がする。
「はい?」
「となりの紺野です!!たすけてください。」
怯えかたが尋常ではなかったので、自分は急いでドアを開けた。目の前には青白い顔をしたあの青年が立っていた。
「どうしたんです?」
「たすけて・・」
自分の部屋のドアをうかがい震えながら、彼は言った。
自分はおびえる彼を取り敢えず、部屋の中に入れた。
青ざめた顔で彼は言った。
「部屋に帰ってきたら、玄関から誰かが侵入しようとして…。こ、怖くて部屋に戻れない」
「侵入!そんな馬鹿な、鍵をかけてたんでしょ?」
「僕はどうしたらいいでしょうか・・・・・」
自分は警察に行くのがいいと伝えた、そして取り敢えず隣室の証人として付いていくことにした。こんな頼りない学生がひとりで大丈夫かという思いがあったからだ。
彼は、これまでのことを簡単に説明したいというので、警察に行く前にすぐ近くの喫茶店に入って話を聞くことにした。
喫茶店に入り、誰もいない隅の席に腰掛けると彼は話し始めた。
「いつも困ってるんです!実はボク、監視されているんです」
「監視?」
「最近では勝手に部屋に上がりこまれる始末で・・・」
「前にも警察には相談したんですか?」
「ええもう何度か電話で。でもその度に事件が起きてから連絡してくれって言われて・・・」
「何か起こってからでは遅すぎませんか?」
「ええ、でも警察なんてそんなものですよ・・」
青年は青白い顔を頬を緩めると、寂しげに笑った。
青年の話だと、ある女に付きまとわれているらしい。その女とは、過去に一度だけ、短い期間付き合ったらしく、何度か部屋にも遊びに来ていたそうだ。そのためこの住所を知っているらしく来る度に、何度も追い返していたが、最近は言うことをきかず、部屋への侵入や窃盗など行為もエスカレートしているらしい。付き合っていたとき合鍵を渡したのだと彼は言った。そのため鍵を変えても、前の鍵があるので簡単に破られるんだそうだ。初めて聞いたが恐ろしい話だ。
「乱暴な女でした、殴られたり蹴られたり。最後は金を脅されて別れたんですが、別れた後もしつこく金を要求してくるんです。」
「普通じゃないね、それ」
自分は思わず言う。
「むこうは、こっちをまだ体(てい)のいいカモと思っていて、しつこく付きまとってんですよ。もともと、学生のときから水商売をやってるような女です。柄の悪い男をつかまえてきては自分を脅しに来るんです。付き合っていた頃の慰謝料を払えとか、別れても生活の支援をしろとか、もうめちゃくちゃですよ」
彼は泣きそうになりながら語った。
「引っ越すしかないかな、それじゃ」
「それが引っ越し代もかかるし、すぐには無理なんです。実家の仕送りにはこれ以上負担を掛けれないし。しかも、部屋の賃貸契約書がいつの間にか女と連名になってるんですよ!変えた覚えないのに…」
「ふむ」
「どうもあの部屋に、無理矢理住みついて乗っ取る魂胆らしいんです。金だけこっちに負担させて。」
「それで、いまや出入り自由というか」
「どうも、通称ヤドカリというらしいんですよ。この手の悪行は。」
「ヤドカリ?」
「ええ!無理矢理、他人の住居に住み着き占有して、最後には家を乗っ取る手法らしいんですよ。」
彼は一通り話して、喫茶店を出るときには心も落ち着いていたのか、警察へ相談にいくのは色々証拠を揃えてからにします、と言った。でも今夜は怖いので、念のため友人の家かネットカフェに泊まるらしい。
腹が減っているようだったので、彼に駅前でラーメンを奢った。本当にお金がないようだったので、引っ越しなんて当面無理そうだった。
ラーメン店を出ると、駅に向かう彼にまた何かあれば相談に来てくれと伝えそこで別れた。
すっかり暗くなってマンションに戻ると、
ちょうど隣室の、503号室のドアを鍵で開けようとしている女性とかち合った。
これが、青年が言っていた元交際相手の女性であろうか。
見たところ、スカートが少し派手であるが普通な感じだ。
自分はこの招かれざる隣人の客に近づくと質問した。
「すみません。あなた誰です?」
相手は一瞬、はぁ?と言ったあと、早口で答えた。
「紺野ですけど。」
ドアを開けようとする。
「ちょっと待って、紺野ナニさんですか?この部屋の方の知り合いかな?」
「この部屋の住人です!なんで下の名前まで言う必要があるんですか。」
「本人かどうかの確認ですよ」
「・・・・紺野美沙。」
あきれたようにそう答えると、女は鍵を開けた。
「ちょっと待って、待って!それを確認できるもの、免許か何かありますか」
その言葉を聞き、女は憤怒の表情となった。
「いい加減にしてください!!」
その言葉で一瞬気圧(けお)すと、そのまま部屋の中に入り、バタンとドアを閉めてしまった。
彼の言っていた通りだった。今夜彼は避難して正解だったようだ。しかし何てふてぶてしい女だろうか、罪悪感や良心などあの感じでは期待できそうにない。なかなか手強そうな相手だ。あの青年に連絡してあげたほうがいいかなと思ったが、自分は連絡先を知らないことに気づいた。
まあいい、今度会ったとき伝えよう。そう思いながら自分は部屋に帰った。
ドンドンドン
警官は言った。
「お隣りから通報がありまして」
「紺野美沙っていってるんでしょ、偽物ですよそれ」
「は?」
「あの部屋の主は紺野っていう青年です、男なんですよ」
あの青年の話じゃないけど、やはり警察はあまり信用できない。
「でもお隣は紺野さんでしょ。」
「何があったか知りませんが、隣同士信頼し合って仲良くしていただかないと・・・。近年は、騒音等の隣人トラブルから事件に発展することも多いですから、つまらない禍根は残さない方がお互いのためですよ。」
数日後、朝出勤しようとドア開けると、ちょうど隣の503号室から人が出るところだった。この前会った女だった。まだ我が物顔でこの部屋に住み着いているようだ。あの青年は無事なのだろうかと心配になった。女はこっちに気がつくと、キッと睨み付ける。やましい身だから、この前の誰何が相当堪えたようだった。警察まで通報して演技するくらいだから大したものだ。
自分はあの青年ことを心配し始めた。あの日以来、彼の顔を見ていなかったからだ。
彼がここで生活していたという痕跡は、部屋から完全に消されている・・・・。
久しぶりに会った彼は、前と同じく青白く粉のような顔をしていた。前にも増しておどおどしている。
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