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その夜を最後に、ホシカはシヅルの前からいなくなった。
警察への相談はもちろんのこと、小遣いをはたいて探偵まで頼んだが、シヅルのもとにはいまだまともな知らせはない。もぬけの殻と化した伊捨家の家屋は、消えた主の帰りをひっそりと待ち続けている。このままではやがて取り壊されて駐車場にでもなるか、売りにだされて新たな住民を迎えることになるはずだ。
よみがえる恐怖に耐え、シヅルは美樽山の研究所にも足を運んだ。だが、思い立つのはすこし遅かったらしい。研究所があったはずの山中は、広く高い金網で何重にもわたって封鎖されていた。
だれかの私有地だという理由で、入山の許可は一切おりない。防護柵そのものに二十四時間走る高圧電流や監視システムの存在と、そのまわりを絶えずうろつく警備員の不自然なまでの多さのため、こっそり忍び込むこともまず無理だ。
登校したら必ず一度は、シヅルは美須賀大付属のホシカの教室をのぞいた。かすかな希望と、片隅の空席を目の当たりにしたときの予想通りの落胆。伊捨家の一家そろっての蒸発は、いっときは同級生たちの間で騒ぎの種となったが、いまはもうやんでいる。
なにひとつ答えをよこさないまま、時間は季節の色をして通り過ぎていった。
気づけば春がおとずれ、美須賀大付属の校庭には満開の桜が咲いている。
敷地のすみっこ、時間をかけてクレーン車で撤去されるのは、ことし咲かなかった古い桜の木だ。季節の変わり目の悪天候等についていけず、傷ついて枯れ、とうとう危険と判断されたらしい。その寂しさはまるで、シヅルの記憶だけにいる誰かを思い起こさせた。それにしても、この入学式の日に工事をあわせるとは学校側の段取りの悪さにあきれる。
ところかわって、体育館の裏……
歴史は繰り返す。
へし折れた角材を手放し、人影は倒れるように校舎の壁に寄りかかった。その女子生徒は傷だらけで、息も荒い。彼女の足もとに累々と転がるのは、おお。ケンカに負けた複数名の不良たちと、角材に薙ぎ払われたチェーンや鉄パイプの類だ。いまのいままでこの大勢を相手に、角材の少女はたったひとりで大立ち回りを演じていたのだった。
生き残ったこの愚かな勝者のなまえは、江藤詩鶴。
その背後では、ついさっきカツアゲに遭いかけた新入生がまだ震えている。
新入生……小柄な少年は、壁で限界を訴えるシヅルにおずおずと声をかけた。
「あ、あの……」
見開かれたシヅルの強い眼差しに、少年はまた身をすくませることになった。血のにじむ唇から漏れたシヅルの声は、とてもドスがきいている。
「うちは詩鶴。江藤詩鶴や」
「ええ、はあ……?」
もう優等生のいい子ぶって、無理に標準語を使うのもシヅルはやめた。いまは過去に生まれ育った地方独特のなまりが丸出しだ。
「しゃきっとせんかい! 名乗られたら名乗り返すのが礼儀やで!?」
「ひ、飛井です! 飛井、譲二といいます! あしたから一年C組に……」
「よし、そこまでや、ジョージ。男らしくてええ名前やけど、もうじき見回りにくる生活指導につかまったら、それも停学者第一号として学校の記録に焼きつくことになる。おしゃべりしとらんとずらかるで、ジョージ」
かわすのに失敗して痛めた肩をおさえたまま、シヅルは体育館の裏道を歩き始めた。手でうながされ、ジョージもついてくる。じぶんの爪先に視線を落としたまま、ジョージは質問した。
「あの、江藤さん。なぜ自己紹介を……?」
「おんどれ、てめえ、きさま、って呼び合いたいんけ?」
「いえ……納得です」
ホシカが姿を消してからというもの、シヅルは驚くほどじぶんを鍛えた。心身ともに。親友が戻ってきたとき、また弱い江藤詩鶴を守らせて迷惑をかけないためだ。いまはいない不良仲間とちょっとずつ似てくるものだから、江藤家の親子喧嘩の頻度は倍増している。
とぼとぼとついてくるジョージに、シヅルはふと変化を感じた。
「泣いとんのかい、あんた?」
「ほ、ほっといてください」
「うちが昔同じ目に遭ったときには、そのハンカチの使い道は違ったで。じぶんの涙なんかより先に、助けてくれた恩人の血をぬぐうのに使った」
「じぶんが情けなくて情けなくて……入学初日から不良に金銭をたかられ、おまけにそのピンチを助けてくれたのが女の子だなんて。死んじゃいたいです、もう」
「そらえらいこっちゃ。こっからの学校生活で毎日死んだとして、約千日ぶんぐらいの命がいるやんけ。ほれ、もうじき校庭や。とっととよこさんかい、そのハンカチ」
「そんな、ぼくが使って汚いですよ。あっ……」
ジョージから奪い取ったハンカチで、シヅルはじぶんの顔をていねいに拭いた。手近なガラスでてきぱきと顔の具合をチェックしながら、体じゅうのホコリを払う。
「殴られた顔のあざは、化粧ででも隠そか。なんとか人前には出られそうや」
後頭部をかいて、シヅルは溜息をついた。理想の対象と比べて、シヅルは自分のこの抜け切らない慎重さがあまり好きではないのだ。
そんな校内の暗部とは裏腹に、一般の学生たちはぞろぞろと帰路についている。
シヅルが乱暴に投げ渡したハンカチは、のばされたジョージの手におさまった。ハンカチから血の匂いより先に、なにかいい香りがしたのは気のせいか。
返却されたそれで目尻をぬぐいながら、ジョージはまたべそをかいた。
「あしたからまた毎日、いじめられに来なければならないんですね。ああ、気が重い。体が重い。カバンが重い。制服の姿が全員、敵に見えます」
「正解や、あんたのその見え方。じぶんが孤立無援やと気づいたんやったら、必死に鍛えるこっちゃな、身も心も」
「き、鍛える? すいませんがぼく、運動は苦手でして」
「心配いらへん。トレーニングは嘘をつかんっちゅう、なによりの証拠がうちや。よかったら紹介するで、うちの通ってるジムを。さっきみたいに、十対一のケンカでも負けんくなる」
「ジ、ジムですって? なにか動きがふつうと違うと思ってたら、江藤さん、やっぱり格闘技やってたんですね。でもぼく、そんなところにひとりで通う勇気はとても……」
「この○△□がッ!」
とても口汚い罵声とともに、シヅルはジョージの胸に指をつきつけた。
「冗談ちゃうで、あんた。いままで生きてきて、なんかを守りたいと思ったことは一遍もないんか? 金でもプライドでも友情でも、なんでもええ。なんかを守りたいと思ったとき、それまでサボってたぶんだけ失って後悔するのはあんたやで? わかっとんのか?」
「すいません、すいません……」
また瞳をうるませ始めた少年を前に、シヅルもさすがにあたりを気にした。
「なあ、ここで泣きなや。まるでうちが泣かしたみたいやんか……」
「まさに、ぐすん、そうですけど?」
「わぁったよ、わかった。むりにジム通いしろなんて言わへん。そのかわり、またさっきみたいな連中にからまれたらうちに言いや? ボコボコにされて、這いずってでもええから」
「ま、また助けてくれるって言うんですか? そういうやり口で手下を増やしてるんでしたら、ぼくなんかは戦力外ですよ、完全に?」
「あほ、なんちゅうこと言うんや。こんなふうに人助けの真似事をするのはあんたが初めてやし、あんたみたいな物凄いへたれも初めてや。誓ってもええ」
「なんだか心強いような、全身全霊で人格を否定されてるような……」
「おっと勘違いしなや。ずっとちゃうで。暗がりに連れ去られたあんたを、いつも見つけられるわけとちゃう。また、うちの手助けがいらんくなったと感じたら、あんたとはサイナラや。ええな?」
「はい、わかりました。あの、どうして?」
「あ?」
「どうして見ず知らずの新入生なんかに、そこまでしてくれるんです?」
肩をすくめて、シヅルは鼻で笑い飛ばした。
「なんもしてへんし、する気もあらへん。うちはただ、なんとかできそうなことを、なんもせんで見てるのが気に食わへんだけや」
昔のウチみたいに、という台詞はシヅルの口の中でつぶやかれるだけに留まった。
腰に手をやってどこか遠くを眺める先輩の横顔を、ジョージは妙にぼうっとした顔つきで見つめている。すこし赤くなったじぶんの頬にも気づかず、ジョージは頭を下げた。
「あの、ありがとうございます。その、なんと言いますか、江藤さんがいなければ、ぼくはきっと……あッ!?」
ジョージが声をあげるのは唐突だった。
突然のことで、シヅルもよくわかっていない。彼が指差す先、よく目を凝らせば、クレーン車に吊られる枯れた桜の木が、牽引箇所を支点に折れかかっているではないか。見た目はただの枯れ木でも、その構造はそうとう弱くなっていたらしい。
あらかじめ辺りに張られた安全用の囲いを、巨大な木の幹はその重量であっという間になぎ倒した。その真下を歩くのは、ぎこちなく手をつなぐ学生のカップルだ。
反射的に、シヅルは手をのばした。
届くはずがない。助けられるはずがない。
じぶんは結局、あんなに身近にいただれかを救うこともできなかった。
だから、こんな十メートルも離れた場所にいる人間ふたりを救うなど、絶対に不可能だ。
それでも……それでも!
鋭い音が響いた。
不幸な男女が潰された余韻ではない。いったいなにが起こったのか。瞬間的に輪切りになった木の幹は、小さな破片と化して地面に散らばっている。その切断面は、とんでもない切れ味の剣か斧かに一閃されたかのごとく鮮やかだ。
とっさに女子をかばった腕をどけ、男子のほうは叫びをあげた。
「怪我はないか!? 美湖!?」
「ええ、大丈夫です、英人……いったいなにが?」
ふたりは気づいていない。
十メートル離れた先、片手をあげるシヅルの存在に。
シヅルの瞳には、ああ。あの奇妙な星が。呪力の五芒星が浮かび上がっている。研究所での憑依の儀式は、だれひとり気づかないうちに完了していたらしい。そして新たな魔法少女の成功例は、その呪われた力で主の願いを具現化したのだ。
呆然とするシヅルの耳もとに、そのだれかは囁いた。
それは、聞き覚えのある懐かしい声。
〝なにも見なかったことにして、そのまま帰りな……シヅル〟
またたく間に混乱の広がる校庭。慌てふためいて駆けつける教師たち。
騒ぎの中、じぶんの掌に視線を落とすと、シヅルはかすかに微笑んだ。
「ありがとう。そこにおってくれたんやな、ホシカ」
シヅルの見上げた青空に、桜の花びらが舞いあがった。
伊捨星歌は帰ってくる……
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