第一話「発生」

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 話は数日前にさかのぼる。  近頃、世の中はある話題で盛り上がっていた。  宇宙の果てから長い旅をしてきた彗星〝ハーバート〟が、ぎりぎりまで地球に接近するというニュースだ。  直径百メートルを超えるそれがもし地表に激突した場合、世界地図の形はほんのすこし変わり、へたをすれば小さな氷河期がおとずれる。  というのは残念ながら、よくあるオカルト好きの希望にすぎない。〝ハーバート〟が成層圏をすこしだけかすめて地球のそばから去ることは、発見者のハーバートさんをふくめた偉い学者たちの計算ではっきりしている。  よく目をこらせば、普段はなにもない空の一点に、かすかな輝きが。うわさの彗星は昼でもよく見える。  そんな空の下、雲を突き抜け、下の下のさらに下。  赤務市、美須賀大学付属高等学校……  ひとけのない体育館裏。  べこべこにへこんだ金属バットを片手に、彗星を見上げるひとりの学生がいる。  打ち返すつもりだ。  その馬鹿のなまえは、伊捨星歌。姿形だけは一応、制服を着た学生だ。  なにがあったのだろう。ホシカの顔には数か所の青あざができ、くちびるの端にも血がにじんでいる。  そして、おお。ホシカの足もとに倒れて苦悶する五、六名の男女。校内でも札付きの不良グループである彼らだが、ホシカに勝つにはまだ色々と力不足だったらしい。  いままで宙を舞っていた折り畳みナイフは、地面に刺さってようやく止まった。その持ち主……こちらもうつ伏せに倒れた苛野藍薇(いらのあいら)の目の前に。  不良のリーダー格として最後まで健闘した彼女だが、ナイフを弾いたホシカのバットが反転、その柄尻で素早くみぞおちを一撃されてしまったのだ。  そのため、アイラのうめきは息も絶え絶えだった。 「き、狂犬……」  それを最後に、アイラはがくりと力尽きた。  同時に、地面で金属音。  金属バットを杖代わりに、ホシカが片膝をついたのだ。このケンカ、さすがのホシカにも堪えたらしい。  自身も呼吸を荒くしながら、ホシカはぽつりとつぶやいた。 「なにも見なかったことにして、そのまま帰りな……江藤詩鶴(えとうしづる)」 「い、いい伊捨さん!?」  ホシカの提案に逆らって、物陰から飛び出した彼女は江藤詩鶴という。  アイラのグループにからまれていた彼女を見かねて、ホシカが単身この場に躍り込んだというのが今回のいきさつだ。  アイラたちのグループも極悪非道で他校にまで名を売っているが、真の危険人物とは静かに日常へ隠れ潜むもの。  美須賀大付属に上がる以前〝狂犬ミサイル〟と恐れられた伝説の不良、伊捨星歌が同じ屋根の下にいることを知らなかったのは、アイラたち最大の誤算だった。  ハンカチを取り出したはいいが、シヅルはホシカの周りであたふたしている。 「ボロボロだわ! 血も出てる! クラスも違う、話したこともない私のために、なんで伊捨さんがこんな目に……私が素直にあいつらにお金を渡すのを、ただ黙って見てればすんだことなのに、なんで、どうして」 「…………」  唇の血をぬぐった手で、ホシカは三本、指をあげてみせた。 「みっつ、質問だ」 「な、なに!?」 「江藤、あんた、彼氏いる?」 「なんでいま、そんなことを……」  戸惑いながらも、シヅルは答えた。 「いません」 「そうか」  うつむいたまま、ホシカはにやりと口の端をまげた。 「そりゃよかった。毎日毎日こんなにタカられてるあんたのこと、知ってて助けに入らない男がいたら、あたしはそいつもブン殴らなきゃならない。このまま行けばあんた、この連中の誰かに、もっと大事なものまで奪われてたかもしんないよ。あたしはそんなのを黙って見てられる性分じゃないし、前々からこいつらのことも気に入らなかった」  重々しい動きで、ホシカは体育館の壁にもたれかかった。殴られてすこし腫れた目のまま、片手のバットを眺める。 「あ~あ、まいったね。野球部の道具をこんなにしちゃったよ。背番号五か……謝らなきゃ。ま、たかが体育会系の脳みそ筋肉だ。一回ぽっきり寝てやれば許してくれるだろ」 「ね、寝!?」  仰天するシヅルを尻目に、ホシカは肩を揺らして笑っている。冗談か本当かわからない人物だ。  負傷した脇腹を急に襲った痛みに、顔をひきつらせて深呼吸するホシカへ、シヅルはおずおずと声をかけた。 「あの、なんてお礼を言ったらいいか……ほんとにありがとう、伊捨さん」 「ホシカでいい。あと、なにも言わなくていいよ。あんたはもともとこんな場所にはいなかったし、なにも見ちゃいない。あんたがあたしに話しかけていいのは、この連中がまたちょっかいかけてきて、手助けがいるときだけだ。わかるね、シヅル?」 「やめて。誰も助けてなんて言ってない」  さみしげな風が、木の葉を揺らした。  震える声で続けたのはシヅルだ。 「だって、私のせいで伊捨さん……ホシカがひとり傷つくなんて我慢できない。見てられない。私、決めた。強くなる。ホシカみたいに」  あいかわらず覇気はないが、それでものシヅル瞳はまっすぐだ。疲れた眼差しでそれを見つめ返しながら、ホシカは告げた。 「マネしちゃダメだよ。あたしのぜんぶ、マネしちゃダメ」  そう首を振るホシカへ、シヅルはそっと片手をさしだした。 「助けはいらない。そのかわり、いろいろ教えて、ホシカ。強くなる方法を」 「先生と親の仕事だ、そいつは」  皮肉げに微笑みながらも、ホシカはシヅルの手を小さく握り返した。  そこでふと、思い出した表情になったのはシヅルだ。 「そういえば、みっつあるって言ってなかった? 質問?」 「ああ、そうそう」  シヅルの手を握るホシカの力は、とつぜん強まった。シヅルの顔を、自分の顔のすぐ横までぐいと近づける。  真っ赤になったシヅルの耳に、ホシカは甘くささやいた。 「質問ふたつめ……退学になりたくはないだろ?」  引き寄せたシヅルの体を、ホシカは今度は強く押した。手近な植栽の中にいきおいよく突っ込み、シヅルの姿は見えなくなる。  野太い声が聞こえたのは、その刹那だった。 「な、なななんだとォォォッ!?」  生活指導担当の教師の叫びに間違いなかった。べこべこの金属バットをかつぐ傷だらけのホシカ、あと地面で悶絶する不良たちを交互に見比べ、蒼白になっている。 「お、おまえは伊捨!? 伊捨星歌!? おまえがやったのか!?」 「いやそーなんだよセンセ。みんなで元気に野球してたらさ、ほら、よくあるじゃん。ファールチップとかデッドボールとか。気づいたらあたしひとりだけ生き残ってて。バットを勝手に持ち出して壊したことはとーぜん謝るし、弁償もする。だからね、ちょっと聞きたいんだけど」  質問みっつめ、とホシカの口が動くのを、シヅルは草葉の陰から確かに見た。 「野球部の背番号五ってさ、何年何組?」  真昼の空にひとつ、その流れ星はずっと輝いていた。
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