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話は数日前にさかのぼる。
近頃、世の中はある話題で盛り上がっていた。
宇宙の果てから長い旅をしてきた彗星〝ハーバート〟が、ぎりぎりまで地球に接近するというニュースだ。
直径百メートルを超えるそれがもし地表に激突した場合、世界地図の形はほんのすこし変わり、へたをすれば小さな氷河期がおとずれる。
というのは残念ながら、よくあるオカルト好きの希望にすぎない。〝ハーバート〟が成層圏をすこしだけかすめて地球のそばから去ることは、発見者のハーバートさんをふくめた偉い学者たちの計算ではっきりしている。
よく目をこらせば、普段はなにもない空の一点に、かすかな輝きが。うわさの彗星は昼でもよく見える。
そんな空の下、雲を突き抜け、下の下のさらに下。
赤務市、美須賀大学付属高等学校……
ひとけのない体育館裏。
べこべこにへこんだ金属バットを片手に、彗星を見上げるひとりの学生がいる。
打ち返すつもりだ。
その馬鹿のなまえは、伊捨星歌。姿形だけは一応、制服を着た学生だ。
なにがあったのだろう。ホシカの顔には数か所の青あざができ、くちびるの端にも血がにじんでいる。
そして、おお。ホシカの足もとに倒れて苦悶する五、六名の男女。校内でも札付きの不良グループである彼らだが、ホシカに勝つにはまだ色々と力不足だったらしい。
いままで宙を舞っていた折り畳みナイフは、地面に刺さってようやく止まった。その持ち主……こちらもうつ伏せに倒れた苛野藍薇の目の前に。
不良のリーダー格として最後まで健闘した彼女だが、ナイフを弾いたホシカのバットが反転、その柄尻で素早くみぞおちを一撃されてしまったのだ。
そのため、アイラのうめきは息も絶え絶えだった。
「き、狂犬……」
それを最後に、アイラはがくりと力尽きた。
同時に、地面で金属音。
金属バットを杖代わりに、ホシカが片膝をついたのだ。このケンカ、さすがのホシカにも堪えたらしい。
自身も呼吸を荒くしながら、ホシカはぽつりとつぶやいた。
「なにも見なかったことにして、そのまま帰りな……江藤詩鶴」
「い、いい伊捨さん!?」
ホシカの提案に逆らって、物陰から飛び出した彼女は江藤詩鶴という。
アイラのグループにからまれていた彼女を見かねて、ホシカが単身この場に躍り込んだというのが今回のいきさつだ。
アイラたちのグループも極悪非道で他校にまで名を売っているが、真の危険人物とは静かに日常へ隠れ潜むもの。
美須賀大付属に上がる以前〝狂犬ミサイル〟と恐れられた伝説の不良、伊捨星歌が同じ屋根の下にいることを知らなかったのは、アイラたち最大の誤算だった。
ハンカチを取り出したはいいが、シヅルはホシカの周りであたふたしている。
「ボロボロだわ! 血も出てる! クラスも違う、話したこともない私のために、なんで伊捨さんがこんな目に……私が素直にあいつらにお金を渡すのを、ただ黙って見てればすんだことなのに、なんで、どうして」
「…………」
唇の血をぬぐった手で、ホシカは三本、指をあげてみせた。
「みっつ、質問だ」
「な、なに!?」
「江藤、あんた、彼氏いる?」
「なんでいま、そんなことを……」
戸惑いながらも、シヅルは答えた。
「いません」
「そうか」
うつむいたまま、ホシカはにやりと口の端をまげた。
「そりゃよかった。毎日毎日こんなにタカられてるあんたのこと、知ってて助けに入らない男がいたら、あたしはそいつもブン殴らなきゃならない。このまま行けばあんた、この連中の誰かに、もっと大事なものまで奪われてたかもしんないよ。あたしはそんなのを黙って見てられる性分じゃないし、前々からこいつらのことも気に入らなかった」
重々しい動きで、ホシカは体育館の壁にもたれかかった。殴られてすこし腫れた目のまま、片手のバットを眺める。
「あ~あ、まいったね。野球部の道具をこんなにしちゃったよ。背番号五か……謝らなきゃ。ま、たかが体育会系の脳みそ筋肉だ。一回ぽっきり寝てやれば許してくれるだろ」
「ね、寝!?」
仰天するシヅルを尻目に、ホシカは肩を揺らして笑っている。冗談か本当かわからない人物だ。
負傷した脇腹を急に襲った痛みに、顔をひきつらせて深呼吸するホシカへ、シヅルはおずおずと声をかけた。
「あの、なんてお礼を言ったらいいか……ほんとにありがとう、伊捨さん」
「ホシカでいい。あと、なにも言わなくていいよ。あんたはもともとこんな場所にはいなかったし、なにも見ちゃいない。あんたがあたしに話しかけていいのは、この連中がまたちょっかいかけてきて、手助けがいるときだけだ。わかるね、シヅル?」
「やめて。誰も助けてなんて言ってない」
さみしげな風が、木の葉を揺らした。
震える声で続けたのはシヅルだ。
「だって、私のせいで伊捨さん……ホシカがひとり傷つくなんて我慢できない。見てられない。私、決めた。強くなる。ホシカみたいに」
あいかわらず覇気はないが、それでものシヅル瞳はまっすぐだ。疲れた眼差しでそれを見つめ返しながら、ホシカは告げた。
「マネしちゃダメだよ。あたしのぜんぶ、マネしちゃダメ」
そう首を振るホシカへ、シヅルはそっと片手をさしだした。
「助けはいらない。そのかわり、いろいろ教えて、ホシカ。強くなる方法を」
「先生と親の仕事だ、そいつは」
皮肉げに微笑みながらも、ホシカはシヅルの手を小さく握り返した。
そこでふと、思い出した表情になったのはシヅルだ。
「そういえば、みっつあるって言ってなかった? 質問?」
「ああ、そうそう」
シヅルの手を握るホシカの力は、とつぜん強まった。シヅルの顔を、自分の顔のすぐ横までぐいと近づける。
真っ赤になったシヅルの耳に、ホシカは甘くささやいた。
「質問ふたつめ……退学になりたくはないだろ?」
引き寄せたシヅルの体を、ホシカは今度は強く押した。手近な植栽の中にいきおいよく突っ込み、シヅルの姿は見えなくなる。
野太い声が聞こえたのは、その刹那だった。
「な、なななんだとォォォッ!?」
生活指導担当の教師の叫びに間違いなかった。べこべこの金属バットをかつぐ傷だらけのホシカ、あと地面で悶絶する不良たちを交互に見比べ、蒼白になっている。
「お、おまえは伊捨!? 伊捨星歌!? おまえがやったのか!?」
「いやそーなんだよセンセ。みんなで元気に野球してたらさ、ほら、よくあるじゃん。ファールチップとかデッドボールとか。気づいたらあたしひとりだけ生き残ってて。バットを勝手に持ち出して壊したことはとーぜん謝るし、弁償もする。だからね、ちょっと聞きたいんだけど」
質問みっつめ、とホシカの口が動くのを、シヅルは草葉の陰から確かに見た。
「野球部の背番号五ってさ、何年何組?」
真昼の空にひとつ、その流れ星はずっと輝いていた。
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