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突然の誘拐……そんなものは、ドラマや映画でしかあり得ないことだと思っていた。
だれが?
なぜ自分を?
いったいなんの目的で?
麻酔らしきもので意識が遠のく直前、ホシカの頭には多くの感情が駆けめぐった。
まず疑問。つぎに恐怖。そして大きな後悔。
両親の言いつけを守って、おとなしく家にいるべきだった。
小さなころから〝裏切ることだけはしなかった〟娘が、大切なタイムリミットをどれだけ過ぎても帰ってこない。ホシカの心配と焦りは、いま自宅で母が抱いているそれと恐らく同じだった。
ああ、戻ったらなんて説明したらいいんだろう。
いや、ふつうに家に帰れるという考えそのものが甘かった。きっとこれから自分は長い時間をかけて滅茶苦茶に犯されたり、もしかしたら解体されて色んな国に内臓を売り払われる。残った死骸は変な薬で骨ごと溶かすか、重石をつけて海の底に沈められるのだ。
ほら、はじまった。
「…………」
まぶたを開けると、ホシカの死の覚悟は真のものとなった。
冷たい。もう縛られてこそいないが、麻酔のせいか体は指一本動かなかった。
下着がわりの薄い布を巻かれ、ホシカは石のベッドに寝かされている。
ベッド……それが、滅亡した古代文明の特集で、よく彼女ぐらいの歳の娘が神への捧げ物となる〝生贄の祭壇〟であることを、ホシカは知らなかった。
暗闇に揺れる炎。祭壇のホシカを中心に、あたりには真っ赤なたいまつの炎が数百、いや数千と燃えている。煌々たる明かりのおかげで、その部屋が恐ろしく広いことだけはわかった。幾重にも漂う細い煙からは、嗅いだことのない香のような匂いがする。
震えることもできずに、ホシカはぼうっと天井を眺めた。
あれはなんだ?
天井に染め抜かれているのは、星に似たマークだった。とんでもなく大きい。
いわゆる〝五芒星〟と呼ばれるその周囲はびっしり異国の文字で埋め尽くされ、おぞましい魔法陣の様相を呈している。そして、これとほぼ同じものが床の祭壇を中心にして描かれているが、いまのホシカにそれを確認するすべはない。
天井の魔法陣が〝入口〟だとすれば、床のそれは〝着地点〟だった。
現れ、そして降り立つ場所にはホシカが寝かされている。
儀式の間にいるのはもちろん、ホシカひとりではなかった。
祭壇の周囲に人、人、人、人。
まぶかにフードをかぶった長衣の人影が、群れをなして祭壇のホシカを囲んでいる。おそらくは二百名以上。フードの下では炎を照り返して真っ赤な瞳が光るばかりで、顔はおろか性別も、ほんとうに人間であるかどうかもわからない。
そいつらは、歌っていた。
低くくぐもった声で、祈っていた。
それらの呪文は、ホシカがこれまで耳にしたことのある、どんな神仏に捧げるものとも違う。日本語ではないし、たぶん英語でもない。〝ウォエ、ウォエ〟〝いあ〟〝ヨーマント〟……ホシカの耳がかろうじて拾った単語も、やはり意味不明だ。
いつチェーンソーで手足をばらばらにされるのだろう……この狂気じみた現状、ホシカに許されるのはただ静かに〝そのとき〟を待つことぐらいだった。
「……!?」
気のせいか?
ふと目を凝らせば、天井の魔法陣に変化が生じていた。
五芒星のところどころが、それを飾る呪文が、かすかに輝き始めたではないか。床の魔法陣にも同じ現象は起こっている。
室内の〝召喚者〟多数の祈りの声も、刻々と勢いを増しつつあった。
強く、大きく、激しく。鼓膜をつんざく呪文の繰り返しにあわせて、部屋中の炎もひときわ凄絶に燃え盛る。
恐怖に頭がおかしくなるのを、ホシカは必死に堪えねばならなかった。
どういう原理か、だんだんと天井の魔法陣がまぶしさを増していく。もう目もあけていられない。
儀式はついに最高潮をむかえ、〝それ〟ははじまった。
砂漠の太陽のごとく輝く五芒星の向こうから、大きな影が這い出たのだ。
あれは、手? 眼球? くちばし?
それは、生きているようだった。
それは、見る者すべてが己の狂気を確信するほど醜悪で、吐き気をもよおすほど惑星の生物史に反するもの。
地響きとも鼓動ともとれる音をもらして、光る影は這い下りてくる。いままさに産まれ落ちる生物のように身をくねらせ、悶えながら、ゆっくりと。
不気味に長い首で周囲を見回したのち、それはすぐに見つけた。
真下の祭壇、ホシカという〝着地点〟を。
家に帰りたい……ホシカは切実にそう思った。
「~~~~~~ッッッ!!!」
五芒星から喚ばれた〝それ〟は、金切り声をひいてホシカに飛びかかった。
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