34人が本棚に入れています
本棚に追加
研究所の廊下は死体だらけだった。
出口を求めてさまよい歩く〝なにか〟を必死に止めようとしたらしい。倒れた警備員の姿は進めば進むほど数を増していき、同時にそれらすべてに息がないという確認もはかどる。
呼吸を止め、できるかぎり目を細めてホシカは走った。そうしないと今にも吐き気とパニックに負け、その場にうずくまってしまいそうだったから。
だがさすがのホシカも〝それ〟を目にしては足を止めざるを得なかった。
まずは、ゆっくりと水滴の落ちる響き。
次に、昆虫の標本……そうとしか表現できない。ひとりの警備員の胸を深々と貫き、体ごと壁に縫い止めるのは奇妙な〝針〟だ。
そう、針。それは長く鋭く、むこうの景色が見えるほどに透き通っていた。
その透明な針の先端から、水の粒はいまも静かに滴り落ちている。震える指先をそちらへ伸ばしながら、ホシカは誰にともなく尋ねた。
「なんだよ……なんなんだよ、これ?」
「触れてはいけません、ホシカ」
ラフの忠告は、少し遅かった。小さな悲鳴とともに、ホシカは針状の凶器から手を引き離している。
皮膚がはがれ、血の珠を浮かせ始めた指先を、ホシカは恐ろしげに見つめた。
「痛っ……つ、冷たい? 凍ってやがるのか、この針?」
「正確には、針じたいが極超低温の水分で形成されています。わかりやすく言えばこれは〝氷でできた武器〟……呪力は抜け、すでに溶け始めてますね。もはや、もとの形がこうだったのかも怪しいものです」
白い凍気を放つ武器を前に、ホシカは押し殺した声で分析した。
「〝殺したあと〟〝溶けて消える〟〝武器〟……そうか。信じられないが、それで、そこらじゅうの妙な死体の説明もつく。でも」
廊下の左右をそっと見て、ホシカは首をかしげた。
「どこにもないぞ、冷凍庫なんて?」
「もしここにいればホシカはとっくに始末されているでしょう。とはいえ、氷の溶け具合から、それがそう遠くない場所にいることは確かです」
「からかうのもいい加減にしろよ。あんたの組織にある冷凍庫はじぶんの足で歩いて、おまけに人殺しが大好きだってのか?」
「おおむね正解です。その人型の冷凍庫の力が、非常に強いという点もふくめて。おそらくは軍事兵器と同等か、それ以上に」
「人型の、兵器……〝魔法少女〟か?」
「はい。しばらくは慣れないでしょうが、これからホシカの身辺に起こる現象は、あなたの知るありとあらゆる常識を超えているとお考え下さい。異世界そのものが人の形に凝縮されて独り歩きするのが〝魔法少女〟なのです」
ホシカの肩に舞い降りると、ラフは目を閉じて考え込んだ。
「ホシカ」
「なんだ?」
「どうか冷静に聞いて。とても悪いお知らせです」
「も、もったいぶってんじゃねえ。いまより悪い状況なんてあるもんか」
「すこし検索しました。所内のセキュリティの破壊は、前方三十七メートル先で止まっています」
「ああん? いまさら、あんたん家の事情を言われたってな? つまりどういうこった?」
「〝彼女〟はすぐそこにいます」
文字どおり、ホシカは凍りついた。肩のラフを、ぎこちなく横目にする。
「……冗談だろ?」
「これまでの破壊のルート、行動パターン、経過時間等々、複数の要因から導き出された結論です。不可解です……シュミュレーションでは〝彼女〟はもうとっくにホシカの背後にいて、その命を奪っているという結果まで出ているのに」
かすかな水滴の音にも、ホシカは過敏に反応した。
思わず振り返った先にあるのは、闇、照明、闇、遺体。断続的にしたたる水の響きは足音のようにも聞こえ、わだかまる暗闇はじわじわと這いずっているようにも見える。
必死の形相で、ホシカはラフに訴えた。
「どうすんだよ……!? なんとかしろ……!」
「周囲の大気の動き、殺気、呪力その他を総計……危険値が三八七%を超えました。規定には反しますが、やむをえません。おさがり下さい」
早口に告げると、ラフはあさっての方向に視線をとばした。
響いたのは、扉の開く駆動音だ。
差し込んだまばゆい光に、ホシカは顔を覆っている。
ゆっくりなびくホシカの髪、吹き流れる清らかな自然の空気。かすかな鳥のさえずり。
手のすきまから覗いたホシカの瞳は、限界まで瞠られた。
「そ……外!?」
つぶやくなり放たれたホシカの拳をかわして、ラフは抗議した。
「なんですか、いきなり?」
「ちょっとこっち来い! 出口があるなら、なんでとっとと開けない!?」
「正規のルートを外れるからです。予定では私は、ホシカをすぐそこの避難所まで誘導するはずでした。隔壁の開放も、緊急事態だからこそ許される特例です」
「このうそつき! 逃がすって言ってたじゃねえかよ!? 外に!」
「言ってません、一言も。たしかに〝外部〟とは言いましたが、ホシカ。魔法少女が一般社会に出るということは、すなわち世界の異常を意味します。管理外行動中の、それも危険な魔法少女が二人もつまったパンドラの箱を、組織がそうやすやすと開け放つと思いますか? あなたに出口は用意されていないのです」
「あーそーかい! 残念だったな! あたしが素直なモルモットじゃなくて!」
怒りにまかせて噛みつく中、ホシカは知らなかった。
闇の中から現れた青白い両手が、自分の首筋にそっと触れつつあるのを。
薄く冷気を漂わせるその指は、触れた先からホシカの髪を凍らせてゆく。
「なにが安全だ! なにが保護だ! あたしは帰る!」
外の光の中にホシカは消え、氷の手は空を切った。
最初のコメントを投稿しよう!