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「K県小論文コンクール、高校生の部は、我が校の西岡悟(さとる)君が佳作を頂きました」
校長先生の声が、マイクを通して壇上から体育館に響いた。その声が、悟の胸にはより一層響いてきた。
素直に嬉しいけど、今素直に喜ぶことはできない。口角が上がっているところなんか、周りに見られたくない。
「我が校でこのコンクールに選ばれたのは、西岡君が初めてです。私も先生みんなも、とても嬉しいです」
悪くないくすぐったさに、じっと耐えた。
壇上に呼ばれ、周りにだけちょっと面倒くさそうに振舞ってから、壇上へと向かう。ここ最近で一番ワクワクしながら歩いている。
おめでとう、と恭しく賞状を手渡され、2年3組の列に帰った。
家に帰ると、何時ものように母さんが夕飯の準備をしていた。
「ただいま。今日、これ貰った」
台所の母さんの背中に声をかけた。
「何?これって?」
磨りガラス越しに、夕日を浴びた母さんが振り返って、差し出した賞状を手に取る。
「すごいじゃん、これ。へぇ~、『戦前へ帰る』ねぇ。難しそう」
「別に難しくないよ」
否定しつつも、またくすぐったさを感じた。
「我が校初の受賞らしいよ」
「マジ~?すごいじゃん」
「うん。今日ごはん何?」
「こんなこともあろうかと、ハンバ~グ~」
何だその変な伸ばし方は。
「嘘つけ」
へっ、と江戸っ子みたいに笑って、母さんはもう台所に向き直った。
「母さんに聞いたぞ。作文で賞貰ったって」
家族三人揃っての夕食中に、父さんが切り出してきた。
「作文じゃなくて小論文」
「なんか難しいテーマ何だってな」
「別に難しくないよ。今、国際的な緊張が高まってて、日本の身の振り方が戦前みたいになってるって書いただけ」
「いや、難しいからそれ」
くすぐったい。でも、なんか上手く顔が作れない。
「いや~、ほんとお母さん今日ハンバ~グ~にしといて良かった」
「さすが母さん」
「いやさすがじゃないから。後それ気に入ってんの?」
突っ込みを入れて、ハンバーグを口に運ぶ。もう半分もない。何だかんだ言って、ハンバーグは旨かった。
人間てのは分かり易いもので、賞をもらって、ちょっと興味を持ってから、今受けている歴史の授業にも興味が出てきた。ちょうど日本の近代史だし。
日本史の高橋先生、温和だけど、おじいちゃんだから、たまに何言ってるかわかんないんだよな。何歳なのか知らないけど、細い輪郭と白い髪のせいで、余計におじいちゃんに見える。
戦前の日本は大変だな、と授業を聞いていてふと思った。
検閲はあるわ、特高はいるわ、”天皇”と聞けば直立しなければならない。
授業が終わった後、和馬が話しかけてきた。
「先生、今日の高橋は先生の得意分野でしたな」
「誰が先生だい。得意分野でもないよ」
「いえいえ、我が校初の賞を取られた先生ですからな。日本の近代なんてチョイチョイでしょう」
「もういいよ、鬱陶しいわ。チョイチョイて何だね君」
「そのちょっとは乗ってくれるとこ好きよ、アタシ」
「やかましいわい」
ふいに後ろから声をかけられた。
「ねえ、西岡君て歴史得意なの?」
「えっ?」
姫野さんだった。何だいきなり。
「あたし、歴史とか社会系のやつあんまりなんだよね」
「へ~、そうなんだ、何か、知らなかったよ」
あれ、何か、言葉が出てこない。
「あたし、理数系はイケるんだけど、そっちの方がね。頭に入んないっていうか。良かったらさ、ちょっと教えてくれない?」
「おいおい、ホントに先生じゃん」
やめろ、今はやめてくれ和馬。
「良ければあたしが数学とか教えるからさ、どう?」
生唾が、喉に。けど今は耐えるしかない。
「本当に?数学苦手だから、助かるよ」
「よし、決まり。じゃあ後で連絡するね」
連絡?ああ、クラスの全体ラウィンから探すのか。
「おいおい、せ~んせっ」
煩い、和馬。
家に帰ったら、姫野さんからラウィンが来てた。すぐに返す。今度の日曜、図書館で勉強することになった。このまま、4日も待てと?くすぐり地獄か。
大きく息を吐いて、ベッドに仰向けに倒れた。
夢みたいかも。いや、夢みたいだ。まさか姫野さんと二人でとは。
ゴロゴロして悶えそうになったが、ありがちなドラマみたいだと思って抑えた。抑えた分だけ、身体がうずく気がする。
ああ、青春なのかこれは。
日曜日、ドキドキしながら20分前に着くように待ち合わせ場所に行った。姫野さんが先にいた。
「ゴメン、遅れたかな?」
「ううん、あたしも今来たとこ」
このやり取り、見たことある。
姫野さんが、ふふっ、と小さく笑った。
「ゴメン、何か、ありがちなこと言ってるなって」
「俺も今、同じこと考えてた」
「ふぅ~ん」
どういう”ふぅ~ん”なんだ。けど、またくすぐったくなった。
「寒いし行こうか、姫野さん」
「うん」
もう、街路樹が紅葉しきっている。
「ああ~、これだから歴史って苦手。全部覚えることじゃん」
「いや、数学だって公式だの解法だの覚えなきゃできないじゃん」
「う~ん、でもぉ~」
「歴史も一緒でさ、想像力とか連想なんだよ。ある出来事の名称とか覚えるだけじゃなくって、エピソードも知ってれば忘れないもんなんだよ」
県立図書館の、自習室を借りた。今日は他の利用者がいないから、広い部屋に二人だけだ。自然に会話も増える。何という幸運。
「それって余計覚えること増えるんじゃん」
「まあ、そう言われれば」
言って机に目を移すと、開いてる参考書のページが目に入った。ちょうど今授業で進めてるとこだ。写真を指差す。
「ほら、これなんか、昔の日本では、学校で軍事訓練なんかしてたんだよ」
「わ~、考えただけで嫌」
「今の日本じゃありえないよね。それに、自由にものを考えたり、本を出版することも制限されてたし」
「今じゃみ~んなSNSやってるよね」
「そう、今とは大違いで…」
何かが、心に引っ掛かった。
帰ってきて、賞を取った小論文を見返した。
自衛隊の軍備の増強や、集団的自衛権のニュースを見たことから、日本がかつての侵略国家になる懸念を述べている。戦争をしない国であるために、と最後に謳っている。大人にウケると思って書いた。
日本は戦前へ回帰しているのか?今更、こんな疑問抱いてどうするんだ。
下から、母さんの声が聞こえてきた。もう晩御飯か。
言いようのない不安が、胸にわだかまっている。俺の書いたものは、何だったんだ?
高橋先生の授業は、相変わらずちょっと聞き取りにくい。
「戦前の日本には、当然ながられっきとした軍隊がありました。日本軍は、このように…」
高橋先生が屈んだ背を伸ばして、黒板の地図に日本軍の進軍路を引いていく。
「このような進路を取って、大陸の奥深くへと進んでいきました」
テレビの特集とかで、大陸での日本人の戦いや暮らしの映像は見たことがある。寒そうな満州も、暑そうな東南アジアも、悲惨としか言いようがないと思った。
「当時の日本は、大東亜共栄圏という理想を掲げていました。アジアを日本のもと、ひとつにする。その実現のために、日本軍は徴兵した将兵を死地へ送り込みました」
また、悟の中で何かが引っ掛かった。
日本には、今も自衛隊がいる。自衛隊は、戦闘訓練を積んでいる、軍隊だ。それが今、憲法解釈によって、自衛のみの軍隊ではなくなろうとしている。けれど、それを統率しているのは誰だ?大東亜共栄圏のような政治スタンスなど、何党が掲げている?
「どうした先生?なんか今日元気ないじゃないの」
和馬が近寄って来てたことに、気付かなかった。なんか、考え込んでしまってたみたいだ。
「いや、なんか、色々考え事してた」
「何だよ考え事って。あっ!姫野さんの事だろ!」
「いや、ちが…」
「何が違うの?」
一瞬、背が跳ねた。また、後ろから姫野さんだ。
「悟がな、姫野さんのこと考えてたんだって」
「オイ」
「ふぅ~ん。何を考えてたのかな?」
そんな顔で聞かないでくれ。
「いや、その、この前は本当に助かったなって。俺数学ダメだからさ」
「なんだ、それか。こちらこそありがと。おかげで今日の高橋先生の授業、ちょっと分かり易かったよ」
何でだろう。嬉しいのに、足元が冷える。
「そっか、それは何より」
「淡白な奴だな」
「岸田君はめっちゃ喋るよね」
「べしゃりのまーちゃんと呼ばれてるからな」
和馬と姫野さんが、他愛ないことを喋り合っている。
「ちょっとゴメン」
小さくいって、教室を出た。廊下がひどく冷えている。
職員室に戻る途中の、高橋先生の屈んだ背中を見つけた。
「高橋先生!」
後ろから呼び止めると、ゆっくりとこちらへ振り向いた。
「西岡君。どうしましたか?」
「すみません、あの、今日の放課後、話を聞いて下さいませんか?」
先生が、小さい目をちょっと細めた。一瞬間があって、口を開いた。
「放課後、よろしいですよ。では、2階の空き教室で待ってます」
「ありがとうございます」
小さく会釈して、先生が踵を返した。先生の背中を見つめながら、胸の内を、安堵と不安が同時に染め上げていくのを感じた。
空き教室は、窓から差し込む光で、夕焼け色に染まっていた。ワックスのかけられた床が、橙色の光を照り返している。
その中で、高橋先生が椅子に腰かけていた。
「来ましたか」
先生の小さな目が、見つめてくる。
「お待たせして、すみません。その、ありがとうございます」
「いえ。それで、お話とは?」
一度息を吸い、吐いた。
「僕が賞を取った小論文のことです」
「なるほど」
「先生は、どう思われましたか?」
先生が目を細めた。それを見るだけで、不安がよぎる。
「忌憚のない、ご意見を言って下さい」
一呼吸おいて、先生が口を開いた。
「賞を取る論文ではなかったと思っています。まず、認識が間違っている」
分かっていても、何か、重いものが肩に乗った気がした。
「君が述べていたことは、戦後耳にタコができるほど聞いた言説です。自衛隊という存在について述べられるとき、何度も何度もそんなことを言う人が出てきました。だが何十年と経った今でも、日本には戦前に帰ったところなど何処にも無い。そしてその人たちは結局、狼少年の運命を辿ったのですよ」
何か言いたかったが、何も出てこなかった。泣きたいような気持ちだが、とても泣けないとも思う。
「でもね、君は自分でそれに気付いた。勇気を出して、答えを確かめた。私は、今はそれでいいと思いますよ」
「でも先生、ならどうして、僕の作文が賞を取ったんでしょうか?」
先生は、眉根を寄せて、また目を細めた。
「それが、一番悲しいことなんですよ」
今日の日曜日も、図書館で姫野さんと勉強していた。
相変わらず、歴史は覚えるばっかりでつまんない、と言いながら勉強していた。今、姫野さんに歴史を教えることに、怯えがある。嘘つきだと、言われたくなくて。
もう街路樹の周りには、枯れた落ち葉が散り始めていた。
家に帰ると、両親揃って夕飯を作っていた。匂いでカレーだとわかる。
食べながら、自分の作文について話した。母さんは、「やあねぇ、戦争なんて」と言い、それを受けて父さんが、「もし戦争になっても、ビールだけは配給してくれないと困る」と言った。それで、話にオチがついてしまって、その話題は霧散した。
父さんも、母さんも、真面目に考えたことがあるのだろうか。いや、世の中の大人の何割が、本当の”常識”というものを身につけているのだろう。
高橋先生が教えてくれた、三島由紀夫の言葉がずっと頭から離れない。
”無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国”
今の日本は、まさにそうではないのか。
だが同時に、それが悪いことなのかも分からない。両親がいて、友達がいて、姫野さんと二人で勉強することは、間違いなく俺の幸せだ。世界とか国とかデカい主語の話より、そんなことの方が大切じゃないのか。
だが、両親も含めた大人のほとんどは、そういう日常を注視する余り、何か、取り返しのつかないものが欠けているのではないのか。
携帯が鳴った。姫野さんからラウィンが来た。
俺の頭はもう、姫野さんへの返信を考えるために回り始めている。
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