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二十時半を過ぎ、ようやく仕事を終えて帰宅の準備を始めた。携帯の充電はとっくに切れ、もちろん彼からの連絡はなく、それを確認してからは振り切れて仕事に集中した。やけになっていたともいう。
九月の夜はまだ蒸し暑さが残り、外に出るとじめりとした空気が肌にまとわりついてくる。不快感から目を逸らしながら、それ以上に襲い来る虚しさを必死で押し殺す。
家に帰って携帯を充電したら、電話をしてみようかな。せめて声だけでも聞きたいし。いや、その前に彼からの返信を見なくちゃ駄目だ。会う予定がある日に携帯の充電が切れるから延期だなんて、よくよく考えれば失礼極まりない。機嫌を損ねていても私は何も言えない。
会社を出て駅に向かって歩き出すと、どこからか「花さん」と呼ばれた気がした。疲れのせいで幻聴が聞こえてきたのかと思えば、再び、今度は鮮明に名前を呼ぶ声が届く。
振り向くと、道の反対側から葵くんが走ってくる姿が見えて固まった。ついには幻覚か、と思うほどには疲れているけれど、これはきっと現実だ。
「お疲れ。帰ろう」
「え、……え」
目の前に立つ葵くんを訳が分からずに見つめていると、なんでもないように言う。
「会社の前で待ってると嫌がるだろ。だから、ちょっと離れたところにいた」
「ま、待っててくれたの……?」
「待ってるって送ったよ。あ、充電切れた?」
じんわりと鼻の奥が痛くなる。あぁ、やばい、泣きそうだ。慌てて視線を逸らして下を向けば、本日二度目の「誕生日おめでとう」をもらい、視界が水分で歪んだ。
今すごく抱きしめたい。抱きしめられたい。外でそんなことを思うのは初めてだ。ぐらぐらと揺れる理性を必死で立て直しながら、誤魔化すようにその手を繋いだ。え、と驚いた声が届き、焦って離す。人前では嫌だと散々自分で言っていたことを、ついやってしまった。
「離さなくてもいいのに」
「く、癖で……」
「繋いでいい?」
「……駄目」
どうしてこんな時に素直になれないのだろう。本当は手だけじゃなくて、全身でくっつきたいとさえ思っているのに。
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