第二話「獅子」

2/9
前へ
/44ページ
次へ
 数日前のできごと……  強化ガラスの向こうのそいつは、きょう、めずらしいほど機嫌がわるかった。  オスのライオンだ。  いつもは寝るか食事かの二択なのだが、いまばかりは野生の凶暴さをむきだしにしている。赤務市(あかむし)にあるここ、美須賀動物園にて、ライオンが全幅の信頼をよせる飼育員も、ただ首をひねるしかない。  腹にひびく雄叫びをあげると、ライオンは目の前の獲物に襲いかかった。二百五十キロを超える百獣の王の突進に、さえぎる強化ガラスがおおきく揺れる。  動物園の通路側、とびあがったのは凛々橋恵渡だ。 「そ、そんなに美味しそうかい、ぼく? 次行こうよ、ハンナ」 「ここがサバンナとかでなくて、ほんとうによかったですね。エド」  エドのとなり、おちついた声で答えた彼女は、樋擦帆夏(ひすりはんな)。  おなじ学校のふたりが付き合い始めてから、もうそれなりに長くたつ。  どちらかといえばハンナは、あまり積極的に外へ出てゆく性格ではなかった。こむずかしい外国の本や図鑑ばかり読んでいる印象があり、生物や化学、機械いじりに関係する成績がすこぶる優秀だというのも、その達観した雰囲気に拍車をかけている。  ふたたび震えた強化ガラスから、エドは一歩あとずさった。 「もう。だいじょうぶなのかな、このガラス? もし割れたら、頭からガブリだよ」 「そんなかわいいものなら、まだいいんですけどね」 「え?」  青い顔をして、エドはハンナを見た。  ガラス越しに振り上げられるライオンの爪は、その一本一本までもが生々しく鮮明にうかがえる。  だが、ハンナには毛ほどの動揺もない。みるみる動きを激しくしてゆくライオンを、ただじっと見つめている。そのなんの変哲もないハンナの行為が、なぜかライオンの感情を逆なでしているようだ。  ライオンの視線と自分のそれを合わせたまま、ハンナは語った。 「彼らはまず、とらえた獲物の呼吸器、つまり喉に噛みつき、窒息させます。かんぜんには絶命しなくとも、獲物の動きさえ止めてしまえばもう十分。まどろみ程度の意識をのこしながら、獲物は感じるでしょうね。ライオンたちがまず、自分の一番やわらかい部位から食べ始めていることを」  動物園などをデートコースにえらんだことを、エドはひどく後悔していた。じつのところ、眼前のライオンの怒りの理由もわかっている。  ライオンだけではない。動物園に足を踏み入れてからこのかた、出会う動物という動物がみんなこうだ。  エドたちカップルを見るや、入口すぐの噴水をおよぐペンギンは、聞いたこともない醜い威嚇の声をあげ、おだやかなはずのパンダまでもが、歯茎をむきだしにして棲家を暴走する。  彼氏そっちのけでライオンを注視するハンナへ、エドは申し訳なさげだった。 「ごめん、ハンナ。まさか、ここでも〝同じこと〟になるなんて……怒ってる?」 「いいえ、とんでもない。怒ってるのはわたしじゃありません。彼らです。そして、彼らの怒りの矛先は、エドではない。わたしに向いている」  そう。動物たちの正気を乱したのは、エドではない。  ハンナだ。  ハンナは不思議なほど生き物に嫌われていた。  わずかでもハンナが近づいた動物は、きまって、まるで自然界の天敵が現れたがごとく攻撃にうつり、あるいは尻尾をまいて逃げる。犬も猫も鳥も、へたをすれば魚さえもが。  やや浮いた性格とはいえ、もちろんハンナ自身は、このとおりどこにでもいる女子高生だ。  ではなぜか? 生物的な本能? 野生の直感? おびえ?  実際、動物たちは気づいているのかもしれない。エドにも思いあたるフシがある。  ハンナは、ある特技をもっていた。  ふだん、デートどころか外出そのものに無関心なハンナが、エドの動物園への誘いなどに乗ったのは、その特技を実験するためだったのかもしれない。  このあと現実に、それは起こった。 「きょうは帰ろう、ハンナ。つぎからは気をつけるよ。こんどはあれだ、植物園にでも行こう。きれいな場所があるんだ」  エドのその提案も、ハンナを振り向かせることはできなかった。  怒り狂うライオンを飽きもせず眺めながら、ハンナはこう問い返しただけだ。 「花なら、わたしを受け入れてくれるとでも?」  ぱちん。  ハンナはただ、かるく指を鳴らしただけだった。 「!?」  エドには最初、なにが起こったのかわからなかった。  どういうことだ?  今の今まで轟いていたライオンの咆哮が、ハンナの指の音とともにぴたりとやんだではないか。  それだけではない。まるで高圧の電流にでも触れたかのごとく、ライオンの体は激しい痙攣に襲われている。震えるとかいうレベルの話ではない。あぜんと口を開けるのはライオンの飼育員だ。  だが、異常はおさまるのも唐突だった。  さきほどまでの身震いが嘘のように、ライオンは呑気にたてがみを振っている。  右を見て左を見て、ライオンはその場を何度か回った。なんだろう。その動きはどこか、生まれたての動物が、体の操作感をじょじょに学ぼうとするかのようにぎこちない。  ライオンの怒りを拭い去ったものの正体はわからないが、さっきの痙攣もきっと、伸びかなにかだったのだろう。  強化ガラスにさえぎられた棲家を、あれやこれや、ライオンはしばらく動きまわった。ぺたりと地面に座り込み、とうとう寝転んでしまう。  感嘆を口にしたのはエドだ。 「すごい。あんな猛獣も〝説得〟できるんだね、ハンナ?」  やがて、エドはあることに気づいた。  ライオンは、じっとエドを見つめている。  エドは目を丸くした。 「え?」  笑った。いまたしかに、ライオンが唇の端をゆがめ、笑ったのだ。  もちろん見間違いに決まっている。それにエドは、ある別の異常に気づくのが遅れていた。  うなりに似た声は、エドの隣からだ。性格を表してか、それまでぴんと伸ばしていた背筋を丸め、ハンナは苦しげに身を震わせている。 「きゅ、急にどうしたのハンナ!? 気分でも悪……」  のばしかけた手を、エドは無意識にひっこめていた。  ハンナの顔を見てしまったのだ。整った容貌はおよそ限界まで引きつり、耳まで裂けるほど剥かれた口からは鋭い八重歯が輝いて、いまにも涎の糸をたらしかねない。  おまけに、エドをにらむハンナの目。縦一線にきゅうっと細まった瞳孔は、ネコ科の獣のそれだ。どうもうな息づかいも、この冷静な彼女にはふさわしくない。  これでは、これではまるで…… 「め、めずらしいね、ハンナ。きみが怪獣ごっこだなんて。怪獣、猛獣、野獣……そうだ、映画館へ行こう!」  冷や汗まじりに笑いながら、エドは一歩後退した。  かわりに、ひどい前傾姿勢のまま、ハンナは一歩前進している。  ハンナの顔をした獣の視線は、瞬間的にエドの喉に狙いをしぼった。地面を蹴ってエドに飛びかかり…… 「帰りましょう」  ふと興味をなくしたかのごとく、ハンナはつぶやいた。今日はここまで、とばかりに背中を再びぴんと張る。  きびすを返して歩き始めたハンナのうしろ、エドはまだ尻もちをついたままだ。早鐘を打つ胸をおさえながら、ふとため息をついたあたりで気づく。  なぜ自分は安心しているのだ? これでは、襲われかけ、気まぐれに見逃された草食動物そのものではないか。  そんなエドに、ハンナの独白は聞こえなかった。 「やはり、ふたつ同時の制御は無理ですね。残ったほうは、すぐ消さなければ……」  これが、樋擦帆夏の〝特技〟……  遠ざかるハンナめがけて、ライオンはまた暴れ始めていた。
/44ページ

最初のコメントを投稿しよう!

32人が本棚に入れています
本棚に追加