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数日前のできごと……
強化ガラスの向こうのそいつは、きょう、めずらしいほど機嫌がわるかった。
オスのライオンだ。
いつもは寝るか食事かの二択なのだが、いまばかりは野生の凶暴さをむきだしにしている。赤務市にあるここ、美須賀動物園にて、ライオンが全幅の信頼をよせる飼育員も、ただ首をひねるしかない。
腹にひびく雄叫びをあげると、ライオンは目の前の獲物に襲いかかった。二百五十キロを超える百獣の王の突進に、さえぎる強化ガラスがおおきく揺れる。
動物園の通路側、とびあがったのは凛々橋恵渡だ。
「そ、そんなに美味しそうかい、ぼく? 次行こうよ、ハンナ」
「ここがサバンナとかでなくて、ほんとうによかったですね。エド」
エドのとなり、おちついた声で答えた彼女は、樋擦帆夏。
おなじ学校のふたりが付き合い始めてから、もうそれなりに長くたつ。
どちらかといえばハンナは、あまり積極的に外へ出てゆく性格ではなかった。こむずかしい外国の本や図鑑ばかり読んでいる印象があり、生物や化学、機械いじりに関係する成績がすこぶる優秀だというのも、その達観した雰囲気に拍車をかけている。
ふたたび震えた強化ガラスから、エドは一歩あとずさった。
「もう。だいじょうぶなのかな、このガラス? もし割れたら、頭からガブリだよ」
「そんなかわいいものなら、まだいいんですけどね」
「え?」
青い顔をして、エドはハンナを見た。
ガラス越しに振り上げられるライオンの爪は、その一本一本までもが生々しく鮮明にうかがえる。
だが、ハンナには毛ほどの動揺もない。みるみる動きを激しくしてゆくライオンを、ただじっと見つめている。そのなんの変哲もないハンナの行為が、なぜかライオンの感情を逆なでしているようだ。
ライオンの視線と自分のそれを合わせたまま、ハンナは語った。
「彼らはまず、とらえた獲物の呼吸器、つまり喉に噛みつき、窒息させます。かんぜんには絶命しなくとも、獲物の動きさえ止めてしまえばもう十分。まどろみ程度の意識をのこしながら、獲物は感じるでしょうね。ライオンたちがまず、自分の一番やわらかい部位から食べ始めていることを」
動物園などをデートコースにえらんだことを、エドはひどく後悔していた。じつのところ、眼前のライオンの怒りの理由もわかっている。
ライオンだけではない。動物園に足を踏み入れてからこのかた、出会う動物という動物がみんなこうだ。
エドたちカップルを見るや、入口すぐの噴水をおよぐペンギンは、聞いたこともない醜い威嚇の声をあげ、おだやかなはずのパンダまでもが、歯茎をむきだしにして棲家を暴走する。
彼氏そっちのけでライオンを注視するハンナへ、エドは申し訳なさげだった。
「ごめん、ハンナ。まさか、ここでも〝同じこと〟になるなんて……怒ってる?」
「いいえ、とんでもない。怒ってるのはわたしじゃありません。彼らです。そして、彼らの怒りの矛先は、エドではない。わたしに向いている」
そう。動物たちの正気を乱したのは、エドではない。
ハンナだ。
ハンナは不思議なほど生き物に嫌われていた。
わずかでもハンナが近づいた動物は、きまって、まるで自然界の天敵が現れたがごとく攻撃にうつり、あるいは尻尾をまいて逃げる。犬も猫も鳥も、へたをすれば魚さえもが。
やや浮いた性格とはいえ、もちろんハンナ自身は、このとおりどこにでもいる女子高生だ。
ではなぜか? 生物的な本能? 野生の直感? おびえ?
実際、動物たちは気づいているのかもしれない。エドにも思いあたるフシがある。
ハンナは、ある特技をもっていた。
ふだん、デートどころか外出そのものに無関心なハンナが、エドの動物園への誘いなどに乗ったのは、その特技を実験するためだったのかもしれない。
このあと現実に、それは起こった。
「きょうは帰ろう、ハンナ。つぎからは気をつけるよ。こんどはあれだ、植物園にでも行こう。きれいな場所があるんだ」
エドのその提案も、ハンナを振り向かせることはできなかった。
怒り狂うライオンを飽きもせず眺めながら、ハンナはこう問い返しただけだ。
「花なら、わたしを受け入れてくれるとでも?」
ぱちん。
ハンナはただ、かるく指を鳴らしただけだった。
「!?」
エドには最初、なにが起こったのかわからなかった。
どういうことだ?
今の今まで轟いていたライオンの咆哮が、ハンナの指の音とともにぴたりとやんだではないか。
それだけではない。まるで高圧の電流にでも触れたかのごとく、ライオンの体は激しい痙攣に襲われている。震えるとかいうレベルの話ではない。あぜんと口を開けるのはライオンの飼育員だ。
だが、異常はおさまるのも唐突だった。
さきほどまでの身震いが嘘のように、ライオンは呑気にたてがみを振っている。
右を見て左を見て、ライオンはその場を何度か回った。なんだろう。その動きはどこか、生まれたての動物が、体の操作感をじょじょに学ぼうとするかのようにぎこちない。
ライオンの怒りを拭い去ったものの正体はわからないが、さっきの痙攣もきっと、伸びかなにかだったのだろう。
強化ガラスにさえぎられた棲家を、あれやこれや、ライオンはしばらく動きまわった。ぺたりと地面に座り込み、とうとう寝転んでしまう。
感嘆を口にしたのはエドだ。
「すごい。あんな猛獣も〝説得〟できるんだね、ハンナ?」
やがて、エドはあることに気づいた。
ライオンは、じっとエドを見つめている。
エドは目を丸くした。
「え?」
笑った。いまたしかに、ライオンが唇の端をゆがめ、笑ったのだ。
もちろん見間違いに決まっている。それにエドは、ある別の異常に気づくのが遅れていた。
うなりに似た声は、エドの隣からだ。性格を表してか、それまでぴんと伸ばしていた背筋を丸め、ハンナは苦しげに身を震わせている。
「きゅ、急にどうしたのハンナ!? 気分でも悪……」
のばしかけた手を、エドは無意識にひっこめていた。
ハンナの顔を見てしまったのだ。整った容貌はおよそ限界まで引きつり、耳まで裂けるほど剥かれた口からは鋭い八重歯が輝いて、いまにも涎の糸をたらしかねない。
おまけに、エドをにらむハンナの目。縦一線にきゅうっと細まった瞳孔は、ネコ科の獣のそれだ。どうもうな息づかいも、この冷静な彼女にはふさわしくない。
これでは、これではまるで……
「め、めずらしいね、ハンナ。きみが怪獣ごっこだなんて。怪獣、猛獣、野獣……そうだ、映画館へ行こう!」
冷や汗まじりに笑いながら、エドは一歩後退した。
かわりに、ひどい前傾姿勢のまま、ハンナは一歩前進している。
ハンナの顔をした獣の視線は、瞬間的にエドの喉に狙いをしぼった。地面を蹴ってエドに飛びかかり……
「帰りましょう」
ふと興味をなくしたかのごとく、ハンナはつぶやいた。今日はここまで、とばかりに背中を再びぴんと張る。
きびすを返して歩き始めたハンナのうしろ、エドはまだ尻もちをついたままだ。早鐘を打つ胸をおさえながら、ふとため息をついたあたりで気づく。
なぜ自分は安心しているのだ? これでは、襲われかけ、気まぐれに見逃された草食動物そのものではないか。
そんなエドに、ハンナの独白は聞こえなかった。
「やはり、ふたつ同時の制御は無理ですね。残ったほうは、すぐ消さなければ……」
これが、樋擦帆夏の〝特技〟……
遠ざかるハンナめがけて、ライオンはまた暴れ始めていた。
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