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うつぶせに倒れたハンナの下に、血溜まりが広がってゆく。
拳銃をまっすぐ前に向けたまま、エドは凍っていた。
人を撃つどころか、みずから暴力を振るうことじたい、彼にとっては初めての経験だったろう。
ナコトの窮地を救いたい一心が、エドに引き金をひかせたのだ。
かたかた震える拳銃に、そっと置かれた手がある。
ナコトだ。側方へ血の混じった咳をすると、ナコトはうつむいた。
「すまない。わたしが隙を見せたばかりに、手を汚させてしまった。わたしを、こんな怪物を救うことほど、無価値な行いはないのに……」
ショック状態のエドだが、やがて、長い時間をかけ、拳銃はナコトによって引き剥がされた。
いっぽう、ハンナにはまだ、かすかだが息が残っている。そちらへ近づくナコトの足取りはおぼつかない。
体じゅうを襲う激痛に、ナコトはちいさく悲鳴をもらした。
「凛々橋。おまえは誰も殺してはいない。殺させない。怪物のとどめは、怪物であるわたしが刺す。つぎからは、みすみす罪を背負うようなマネはよすんだぞ?」
重々しい響きをたてて、ナコトの拳銃はハンナの頭に狙いを定めた。
光のない瞳をして、ハンナは血の泡といっしょに何かつぶやいている。断末魔の怨嗟にちがいない。
「染……ん。油断……めだ。また……ンナ……入れ……った」
ナコトは眉をひそめた。用心深くハンナの口もとに耳を寄せると、聞こえたのはこれだ。
ナコトの目は、限界まで見開かれた。
「染夜、さん。はやく、ハンナを……ぼくを、撃って……!」
「しまったああァァッッ!!」
ナコトの拳銃が背後へひるがえったときには、もう遅い。
粉々に割れてきらめく窓ガラス。
ふたたびエドの体を奪ったハンナは、夜の闇へ逃げ去ってしまっている。
はりさけそうな声で、手もとの拳銃へ怒鳴ったのはナコトだ。
「テフ! ナイアルラソテフ! なんとかしろ!」
武器に化けたのが仇となった。動物の形態だからこそ、テフもハンナの邪悪な精神を見分けられたのだ。
拳銃の姿のまま、テフは動揺まじりに答えた。
「ダメだ……もし俺が凛々橋にのりうつったら、わかってるだろ。ナコト、こんどはおまえが死んじまう。あのときハスターに殺されたおまえが、こうして生きてるのは、俺が生命維持装置の役をやってるからだ」
「わたしはどうでもいい! さっさと……」
ナコトの怒号は、しりすぼみに途絶えた。
エドの手が、ナコトの頬に触れたのだ。しずかに、やさしく。
唇の端から流れおちる大量の血をぬって、エドはうったえた。
「染夜さんは、ぜったいに死んじゃいけない……ぼくの顔をした怪物は、かならず、もっともっと、たくさんの人の命をうばうだろう。そうなるまえに、あいつを、ハンナを止めて。これは、ぼくからの、さいごの、おねがい……」
「しゃべるんじゃない! いま病院へ連れていく!」
「染夜さん……きみは、まちがっても、怪物なんかじゃ、ない。心優しい人間だ。だから……だから、自分で自分を怪物呼ばわりするのはやめて。いい、かい。約束、だよ」
ゆるやかに、エドの手は床へおちた。ナコトの頬に、赤い指のあとだけを残して。
樋擦帆夏の顔ではあるが、凛々橋恵渡は、なぜか微笑んだままだ。
暗闇を、ナコトの悲鳴がきりさいた。
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