第二話「獅子」

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 真夜中だというのに、美須賀動物園はやけに騒がしかった。  強化ガラスの檻のむこうには、闇ばかりが詰まっていてなにも見えない。  不気味に響くのは、地鳴りのような唸り声と、大型のそれが走りまわる音、吐き気をもよおす猛禽類の叫びと羽ばたきだ。  おそろしく不快なある気配は、すでに動物園そのものに察知されているらしい。  中央の広場まで来ると、その硬い足音は立ち止まった。  人影……赤く充血したナコトの瞳は、幽鬼のごとき隈にふちどられている。  広場のさらに真ん中、円柱の頂上についた大きな時計を、ナコトの視線はとらえた。  時計の上には、人がひとり、優雅に足を組んで座っているではないか。  制服姿のその少年の顔を見て、ナコトはぽつりと名を呼んだ。 「凛々橋……」 「ようこそ、染夜名琴。わたしの顔に、わたしを殺せと頼まれましたか?」  答えるその声はエドと同じ、顔もまったく同じ。  だが、ちがうのだ。  なまぐさい風に髪をなびかせながら、ナコトはハンナへ問うた。 「凛々橋を殺し、自分の体も殺して捨て去る……おまえはいったい、なにがしたい?」 「もちろん、あなたがいま味わっているような苦痛と絶望を、ちょっと離れた場所から観察し、学んで糧とすることです。ところで、さっき工場では、自分のふがいなさがエドを巻き込んだと認めてらっしゃったのに、あなた。舌の根もかわかないうちに、もうぜんぶわたしの責任ですか? なんでしたら、あなたがエドと勘違いして、わたしに述べられた反省の言葉、一言一句たがわず聞かせてさしあげますよ?」  眉ひとつ動かさぬナコトを前に、ハンナはにこやかに笑った。 「これだから世界を呪うのはやめられません。お気づきですよね? わたしが少し本気をだせば、核兵器の発射ボタンなどたやすく押すことができるのを。では、なぜやらないのか? ……〝あの方〟は、わたしをこう説得されました。一瞬ですべてを無に帰すのは簡単だが、それではもったいない。まず、その過程たる、人間のありとあらゆる痛みと苦しみを見よ、と。見て、あざ笑って、呪って、満足ゆくまで〝楽しめ〟と」  なつかしげに語るハンナをよそに、ナコトの体はひるがえった。  かまえられたナコトの両手には、手品のごとく二挺の拳銃があらわれている。  一挺は大きく背後へ引きしぼり、もう一挺はまっすぐ前方、ハンナへ。  メガネの奥で慎重に狙いを定めながら、ナコトはささやいた。 「わたしの苦痛でよければ、好きなだけ見ていくがいい。代償として、その体からは出ていってもらう」  ハンナは瞳をかがやかせた。 「みずから処刑台の階段をのぼりますか、染夜ナコト?」 「大急ぎで駆け登ってきてやったぞ。おまえが忘れていった、わたしの首を届けにきた」 「ずいぶん鮮度のいいことで。でも、首だけで済むとお思いですか?」  ぱちん、とハンナの指は鳴った。  背後の植え込みから、次の瞬間、巨大な影がナコトに襲いかかっている。尾をひく雄叫び、よだれを散らす牙。  あらかじめハンナがオリを開け、ときはなった肉食獣だ。  ナコトの手もとで怒鳴ったのは、ナイアルラソテフの拳銃だった。 「こいつ! 中身は樋擦帆夏だ!」  にぶい音が響いた。  地面を転がってナコトの横を行き過ぎ、肉食獣はそのまま動かなくなる。  すばやく拳銃を反転させたナコトが、銃把の底で肉食獣のこめかみを一撃したのだ。  横薙ぎにほとばしった五本の光は、ナコトの髪を数本、闇に散らした。  おもいきり足を広げ、地面すれすれまで身を沈めて、ナコトは二匹目の猛獣の爪をかわしている。  だが、ナコトの眼前にあったのは、大きく上下に裂けた三匹目の獣の口だ。なんという連携か。  ばくんとその顎が閉じられた場所に、しかし、ナコトの姿はない。  空中での前転から放たれたナコトの踵落としは、獣の頭を直撃した。低く姿勢を落としたナコトの足の下、その大型爬虫類は昏倒する。  立ち上がる足のバネをいかして、ナコトは跳んだ。二匹目の猛獣が打ち落とした剛腕の爪と、かざされた銃身が激突して火花を散らす。  かき消える逆側のナコトの手。二メートル近い高さにある直立した獣の顎を、下から上に打ち抜いたのは、鈍器と化したもう一挺の拳銃の銃把だ。  ちいさな脳を激しくゆさぶられ、獣は地響きをたてて倒れた。  狼狽した声は、ナイアルラソテフのものだ。 「ナコト! あの女、次から次へと精神を交換してやがる! なんてスピードだ!」 「それも、こんな正確に……進化していると言うのか!?」  ナコトの後頭部が、何者かに掴まれたのはそのときだった。  そのまま、隕石のごとき勢いで、ナコトの顔は地面に叩きつけられている。深々と陥没し、とびちるアスファルト。  いや、それだけに留まらない。同じことを一回、二回、そして三回……轟音は響き続けた。  ナコトの顔を地面に押さえつけた状態で、唇をつりあげたのはハンナだ。 「感心しませんね、その学習力のなさ。チェックメイトも二度目です」 「……はな、せ」 「ああ、またエドにでも助けてもらえばどうです? おっと、いけません……染夜ナコトのせいで、エドは死んでしまったんですね。失礼失礼。自分を信じてくれる人間を、どうしてそう平気で裏切れるんです? 今後の参考のため、わたしにもぜひ、そのあたりをご教授願いたいんですが」  ふと、ハンナは不思議な顔になった。  おさえつける手のすきまから、地面のナコトがこちらを睨みつけているではないか。瞳の奥に、地獄が宿っている。  低く這うような声で、ナコトはうなった。 「絶対に許さない……おまえだけは、絶対に」 「では、好きにしてかまいませんよ、この体」  ハンナはあっさり言ってのけた。 「凛々橋エドらしく、体のステータスが低いこと低いこと。ほんとうに、この歳までなにもしてなかったんですね、彼……かわりに、染夜ナコト。じかにじっくり触れてみて、わかりました。呪力・体力ふくめ、あなたはとてもイイ。わかりますね、この意味?」  ナコトは息をのんだ。 「入れ替わるつもりか……わたしと!?」 「じつは、あの方から推奨されたことでもあります。大好きなエドとひとつになれて、あなたも幸せでしょう?」  必死にもがくナコトの動きを、てのひらの下に心地よく感じながら、ハンナは告げた。 「いきますよ! そしていらっしゃいませ! 染夜ナコト!」  ぱちん。  ハンナが指を鳴らすや、ナコトの体はでたらめに痙攣した。  痙攣が収まるのはすぐだ。ナコトをとらえたエドは横向きに倒れ、反対に、ナコトは何事もなかったかのように身を起こしている。  ああ。笑顔そのものを知らないあのナコトの表情に、いまやハンナの醜悪なほほえみが宿っているではないか。  あらたな手足を満足げに確認しながら、ハンナはナコトの顔でおどろいた。 「ボロボロじゃないですか、この体。こんなダメージを負ったままわたしに挑んでいたとは、涙がでそうですね。さて……」  いまだその手に握られた拳銃を、ハンナは前にもたげた。  エドの体へむりやり移されたナコトが、起き上がろうとしているのだ。  その顔へ銃口を照準しながら、ハンナはナコトの声でささやいた。 「おやすみなさい」  エドは叫んだ。 「やれ! ナコト!」 「なにィッ!?」  銃声……ハンナは、自分の胸から吹き出る血を愕然と見た。  ひとりでに動いた自分の手が、みずからの心臓に拳銃の狙いをねじ曲げ、引き金をひいたのだ。  致命傷を受け、ナコトとハンナの精神はふたたび入れ替わった。お互いもとに戻ったのだ。  ハンナが動くより、そのひたいにナコトが拳銃を突きつけるほうが一瞬早い。  唇の端から血を流しながら、ナコトは荒い息をくりかえした。 「チェックメイトだ、樋擦帆夏」  彫像のごとく固まったまま、ハンナはうめいた。 「あなたの中にあった精神を、わたしは、たしかにエドの体へ移したはずです……なのになぜ、あなたの精神は、わたしといっしょに染夜ナコトの中に残ってたんです?」 「どうやらおまえ、ナイアルラソテフの力だけが、わたしに取り憑いていると思っていたようだな。力〝だけ〟なら、どれほどよかったことか」 「まさか、そんな。あなたの中には、染夜ナコトとナイアルラソテフの精神が、もともと同居していたと言うのですか? あなたの中に、そんなおぞましい存在が……」  ハンナの推理は正解だった。  さっきエドの体に移し替えられたのは、ナイアルラソテフの精神だけだったのだ。自分の体から追い出されるのを避けたナコトは、自分ごとハンナの精神を撃った。  ちなみにナコトの拳銃、もとい子イノシシは、ナイアルラソテフがナコトからはなれて単独行動するための足、いわば子機といえばわかりやすい。 「おまえの精神に手もとを狂わされ、幸か不幸か、一ミリばかり銃口はそれた」  引き金にかけた指に力をこめ、ナコトは続けた。 「わたしは、わたしの心臓を狙ったぞ?」  ハンナが身震いするのは突然だった。  死の恐怖? 敗北の屈辱からくる怒り?  いや、そのどちらでもない。エドの顔をしたハンナの痙攣は、精神が入れ替わるときに特有の現象だ。 「撃たないで! 染夜さん!」  それは、なつかしい声だった。
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