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真夜中だというのに、美須賀動物園はやけに騒がしかった。
強化ガラスの檻のむこうには、闇ばかりが詰まっていてなにも見えない。
不気味に響くのは、地鳴りのような唸り声と、大型のそれが走りまわる音、吐き気をもよおす猛禽類の叫びと羽ばたきだ。
おそろしく不快なある気配は、すでに動物園そのものに察知されているらしい。
中央の広場まで来ると、その硬い足音は立ち止まった。
人影……赤く充血したナコトの瞳は、幽鬼のごとき隈にふちどられている。
広場のさらに真ん中、円柱の頂上についた大きな時計を、ナコトの視線はとらえた。
時計の上には、人がひとり、優雅に足を組んで座っているではないか。
制服姿のその少年の顔を見て、ナコトはぽつりと名を呼んだ。
「凛々橋……」
「ようこそ、染夜名琴。わたしの顔に、わたしを殺せと頼まれましたか?」
答えるその声はエドと同じ、顔もまったく同じ。
だが、ちがうのだ。
なまぐさい風に髪をなびかせながら、ナコトはハンナへ問うた。
「凛々橋を殺し、自分の体も殺して捨て去る……おまえはいったい、なにがしたい?」
「もちろん、あなたがいま味わっているような苦痛と絶望を、ちょっと離れた場所から観察し、学んで糧とすることです。ところで、さっき工場では、自分のふがいなさがエドを巻き込んだと認めてらっしゃったのに、あなた。舌の根もかわかないうちに、もうぜんぶわたしの責任ですか? なんでしたら、あなたがエドと勘違いして、わたしに述べられた反省の言葉、一言一句たがわず聞かせてさしあげますよ?」
眉ひとつ動かさぬナコトを前に、ハンナはにこやかに笑った。
「これだから世界を呪うのはやめられません。お気づきですよね? わたしが少し本気をだせば、核兵器の発射ボタンなどたやすく押すことができるのを。では、なぜやらないのか? ……〝あの方〟は、わたしをこう説得されました。一瞬ですべてを無に帰すのは簡単だが、それではもったいない。まず、その過程たる、人間のありとあらゆる痛みと苦しみを見よ、と。見て、あざ笑って、呪って、満足ゆくまで〝楽しめ〟と」
なつかしげに語るハンナをよそに、ナコトの体はひるがえった。
かまえられたナコトの両手には、手品のごとく二挺の拳銃があらわれている。
一挺は大きく背後へ引きしぼり、もう一挺はまっすぐ前方、ハンナへ。
メガネの奥で慎重に狙いを定めながら、ナコトはささやいた。
「わたしの苦痛でよければ、好きなだけ見ていくがいい。代償として、その体からは出ていってもらう」
ハンナは瞳をかがやかせた。
「みずから処刑台の階段をのぼりますか、染夜ナコト?」
「大急ぎで駆け登ってきてやったぞ。おまえが忘れていった、わたしの首を届けにきた」
「ずいぶん鮮度のいいことで。でも、首だけで済むとお思いですか?」
ぱちん、とハンナの指は鳴った。
背後の植え込みから、次の瞬間、巨大な影がナコトに襲いかかっている。尾をひく雄叫び、よだれを散らす牙。
あらかじめハンナがオリを開け、ときはなった肉食獣だ。
ナコトの手もとで怒鳴ったのは、ナイアルラソテフの拳銃だった。
「こいつ! 中身は樋擦帆夏だ!」
にぶい音が響いた。
地面を転がってナコトの横を行き過ぎ、肉食獣はそのまま動かなくなる。
すばやく拳銃を反転させたナコトが、銃把の底で肉食獣のこめかみを一撃したのだ。
横薙ぎにほとばしった五本の光は、ナコトの髪を数本、闇に散らした。
おもいきり足を広げ、地面すれすれまで身を沈めて、ナコトは二匹目の猛獣の爪をかわしている。
だが、ナコトの眼前にあったのは、大きく上下に裂けた三匹目の獣の口だ。なんという連携か。
ばくんとその顎が閉じられた場所に、しかし、ナコトの姿はない。
空中での前転から放たれたナコトの踵落としは、獣の頭を直撃した。低く姿勢を落としたナコトの足の下、その大型爬虫類は昏倒する。
立ち上がる足のバネをいかして、ナコトは跳んだ。二匹目の猛獣が打ち落とした剛腕の爪と、かざされた銃身が激突して火花を散らす。
かき消える逆側のナコトの手。二メートル近い高さにある直立した獣の顎を、下から上に打ち抜いたのは、鈍器と化したもう一挺の拳銃の銃把だ。
ちいさな脳を激しくゆさぶられ、獣は地響きをたてて倒れた。
狼狽した声は、ナイアルラソテフのものだ。
「ナコト! あの女、次から次へと精神を交換してやがる! なんてスピードだ!」
「それも、こんな正確に……進化していると言うのか!?」
ナコトの後頭部が、何者かに掴まれたのはそのときだった。
そのまま、隕石のごとき勢いで、ナコトの顔は地面に叩きつけられている。深々と陥没し、とびちるアスファルト。
いや、それだけに留まらない。同じことを一回、二回、そして三回……轟音は響き続けた。
ナコトの顔を地面に押さえつけた状態で、唇をつりあげたのはハンナだ。
「感心しませんね、その学習力のなさ。チェックメイトも二度目です」
「……はな、せ」
「ああ、またエドにでも助けてもらえばどうです? おっと、いけません……染夜ナコトのせいで、エドは死んでしまったんですね。失礼失礼。自分を信じてくれる人間を、どうしてそう平気で裏切れるんです? 今後の参考のため、わたしにもぜひ、そのあたりをご教授願いたいんですが」
ふと、ハンナは不思議な顔になった。
おさえつける手のすきまから、地面のナコトがこちらを睨みつけているではないか。瞳の奥に、地獄が宿っている。
低く這うような声で、ナコトはうなった。
「絶対に許さない……おまえだけは、絶対に」
「では、好きにしてかまいませんよ、この体」
ハンナはあっさり言ってのけた。
「凛々橋エドらしく、体のステータスが低いこと低いこと。ほんとうに、この歳までなにもしてなかったんですね、彼……かわりに、染夜ナコト。じかにじっくり触れてみて、わかりました。呪力・体力ふくめ、あなたはとてもイイ。わかりますね、この意味?」
ナコトは息をのんだ。
「入れ替わるつもりか……わたしと!?」
「じつは、あの方から推奨されたことでもあります。大好きなエドとひとつになれて、あなたも幸せでしょう?」
必死にもがくナコトの動きを、てのひらの下に心地よく感じながら、ハンナは告げた。
「いきますよ! そしていらっしゃいませ! 染夜ナコト!」
ぱちん。
ハンナが指を鳴らすや、ナコトの体はでたらめに痙攣した。
痙攣が収まるのはすぐだ。ナコトをとらえたエドは横向きに倒れ、反対に、ナコトは何事もなかったかのように身を起こしている。
ああ。笑顔そのものを知らないあのナコトの表情に、いまやハンナの醜悪なほほえみが宿っているではないか。
あらたな手足を満足げに確認しながら、ハンナはナコトの顔でおどろいた。
「ボロボロじゃないですか、この体。こんなダメージを負ったままわたしに挑んでいたとは、涙がでそうですね。さて……」
いまだその手に握られた拳銃を、ハンナは前にもたげた。
エドの体へむりやり移されたナコトが、起き上がろうとしているのだ。
その顔へ銃口を照準しながら、ハンナはナコトの声でささやいた。
「おやすみなさい」
エドは叫んだ。
「やれ! ナコト!」
「なにィッ!?」
銃声……ハンナは、自分の胸から吹き出る血を愕然と見た。
ひとりでに動いた自分の手が、みずからの心臓に拳銃の狙いをねじ曲げ、引き金をひいたのだ。
致命傷を受け、ナコトとハンナの精神はふたたび入れ替わった。お互いもとに戻ったのだ。
ハンナが動くより、そのひたいにナコトが拳銃を突きつけるほうが一瞬早い。
唇の端から血を流しながら、ナコトは荒い息をくりかえした。
「チェックメイトだ、樋擦帆夏」
彫像のごとく固まったまま、ハンナはうめいた。
「あなたの中にあった精神を、わたしは、たしかにエドの体へ移したはずです……なのになぜ、あなたの精神は、わたしといっしょに染夜ナコトの中に残ってたんです?」
「どうやらおまえ、ナイアルラソテフの力だけが、わたしに取り憑いていると思っていたようだな。力〝だけ〟なら、どれほどよかったことか」
「まさか、そんな。あなたの中には、染夜ナコトとナイアルラソテフの精神が、もともと同居していたと言うのですか? あなたの中に、そんなおぞましい存在が……」
ハンナの推理は正解だった。
さっきエドの体に移し替えられたのは、ナイアルラソテフの精神だけだったのだ。自分の体から追い出されるのを避けたナコトは、自分ごとハンナの精神を撃った。
ちなみにナコトの拳銃、もとい子イノシシは、ナイアルラソテフがナコトからはなれて単独行動するための足、いわば子機といえばわかりやすい。
「おまえの精神に手もとを狂わされ、幸か不幸か、一ミリばかり銃口はそれた」
引き金にかけた指に力をこめ、ナコトは続けた。
「わたしは、わたしの心臓を狙ったぞ?」
ハンナが身震いするのは突然だった。
死の恐怖? 敗北の屈辱からくる怒り?
いや、そのどちらでもない。エドの顔をしたハンナの痙攣は、精神が入れ替わるときに特有の現象だ。
「撃たないで! 染夜さん!」
それは、なつかしい声だった。
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