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一日前……
夕暮れのせまる赤務市は、濃いオレンジ色に染まっていた。
「あわッ!?」
「!」
走る人影とぶつかり、なさけなく尻餅をついたのは凛々橋恵渡だった。
美須賀大学付属高校からの帰り道、エドは建物にはさまれたこの路地裏を習慣的に使っている。せまいうえに薄暗いせいで、こんなふうに人と交錯しても不思議はない。
肌に染みこんでくる水たまりの冷気を感じながら、エドは反射的にあやまった。
「すいま……」
相手を見たとたん、エドは腰の痛みも忘れて立ち上がった。
人影が、みなれた美須賀大付属の制服を着ていて、なおかつ女子だったせいではない。
その女子の制服はあちこちが裂けて焼けこげ、傷ついた腕をおさえる指の間からは、夜目にも鮮やかに血がしたたっているのだ。
それよりなにより、ずたぼろの彼女は……〝あの〟久灯瑠璃絵ではないか?
エドはあわてた。
「いったいどうしたの!? ケガしてるじゃないか!」
「……静かにして」
ぜいぜい息をしながら、ルリエはこたえた。
「あいつに居場所がばれる」
「あいつ、って? とにかく病院病院!」
「そこをどいて」
押し問答するふたりに、長い影が降りかかったのはそのときだった。
エドがゆっくり振り向いた先、路地裏の入口にひとり、人が立っている。
夕陽が逆光になって、はっきり顔は見えない。だが、その輪郭をかすかに変えて輝くあれは、メガネ?
ルリエが戦慄に奥歯をかみしめる音に、エドは気づかなかった。
「ちょうどよかった。すいません! 救急車を呼んでいただけませんか!?」
エドをかたまらせたのは、メガネの人影からの返答だった。
「んなものは要らねえよ、クソガキ」
いまのが本当に人の発する声か? おそろしく耳ざわりなキンキン声で、メガネの人影は続けた。
「そのていどの傷、傷のうちにゃ入らねえ。そいつを殺すには、もっと深くえぐって、体もバラバラに解体しちまわねえとダメだ」
「あの……なに言ってるんです?」
セリフの意味を理解しかねるエドに、メガネの人影は明確な答えを与えた。
夕陽の輝きをひいて、人影の手にひらめいたのはおかしな金属物だ。あんなものは、エドは映画などでしか見たことがない。
拳銃。
その銃口は、どう見てもふたりを向いている。人影は言いはなった。
「こっちによこしな。その、女子高生みたいなのを。楽しい楽しい、遊びの続きだ」
そこでエドの頭をよぎったのは、今日の朝刊の一面だった。
〝赤務市で謎の失踪事件多発。同一犯による誘拐事件の疑いあり〟
かばわれるまま、ルリエはエドへ苦しげにうながした。
「はやく逃げて。あいつの狙いはあたしよ」
「そ、そうしたいとこだけど……こういうときは、ドラマとかではレディファーストが基本だよ? きみのほうこそ逃げて」
「この状況に、台本なんてあるわけないじゃない。あいつにあるのは、どう苦しめて、どう楽しんで、どう殺すかのマニュアルだけ……」
いらついたのか、メガネの人影は声をはりあげた。
「とっととしねえかクソガキ! まとめてなぶり殺すぞ!」
たじろいだエドの足は、背後の水たまりを踏んだ。にごった水滴がはねる。
それを見て、ふと表情をひきしめたのはルリエだ。
「いっしょに逃げられるかもしれない」
「うん、それがベストだと思うけど……相手は鉄砲を持った誘拐犯だよ?」
「チャンスは一回。あたしがあいつの目をくらませる」
コンクリートの砂利を踏みしめる音がひびいた。
メガネの人影が一歩前進したのだ。かすかに笑った声で、人影は告げた。
「よ~し、よくわかった。クソガキ、ちょいと痛いが我慢しな。おっと、心配しなくたって、一瞬で終わるからさ。なにもかも」
「いまよ!」
ルリエの合図とともに、一瞬のうちに色々なことが起こった。
まず、奇妙な現象……エドの足もとの水たまりが、まるで自ら意思を持ったかのごとくメガネの人影に浴びせかかったではないか。いや、襲いかかったという方が正しい。
つぎに、かわいた破裂音。銃声だ。とっさのことに狙いを外れた銃弾は、左右の壁を高速で跳ねまわって闇へ消えた。
同時に、ルリエはエドの手をひいて駆け出している。年端もいかない少女で、おまけに大怪我まで負っているのに、信じられない力強さだった。
最後に……
エドがちらりと背後を見ると、人影は、なにかを引き剥がそうと必死にもがいていた。
人影の顔にとりつくのは、幼稚園児ほどの四肢をそなえた物体だ……びっしり全身を覆い尽くすあれは、ウロコ? ウロコにしか見えないその表皮は、赤い夕陽をぬめぬめと照り返している。
まるで、つい今しがた、あの水たまりから生まれてきたかのごとく。
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