第三話「矢印」

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 暗闇に、なにかの息が響いていた。  わたしのものでなければ、人間のそれでもない。  足音をしのばせ、わたしはホコリのつもった祭壇にたどりついた。  我知らず、生唾をのんでしまう。祭壇のうえで、なにかがゆっくり蠕動しているではないか。  生きている。しかし、人間ではない。さきほどから寝息をたてているのも、そのおぞましい影だ。これはいったい……  ぱちんと懐中電灯の光をともすや、わたしは瞳をかがやかせた。  祭壇にころがって眠りこけるのは、ツンツンした毛の茶色い物体……てのひらサイズのイノシシのこどもだ! 「ちっちゃ~い! か~わい~!」  子イノシシを撫でまわすわたしを、不気味な風が襲ったのはそのときだった。  振り返ったときにはもう遅い。わたしの背後には、三つの赤い瞳が燃えている。  遺跡の住人。  しどろもどろに、わたしは挨拶した。 「このまえはありがとう、染夜です。え~っと、イア、イソ」 「……ナイアルラソテフだ。あいにく名刺は切らしてる。呼びにくけりゃ〝暗黒神〟〝盲目にして無貌のもの〟〝這い寄る混沌〟、どれでもいいぜ」 「言ってる端から忘れてってるよ……そうだ! ないあるらそてふ、略して〝テフ〟なんてどう? うん、かわいい。そうしよう!」 「名前をメモひとつしてもらえないとは、俺ら〝星々のもの(ヨーマント)〟もマイナーになったもんだな。ところでおまえ、なんだそのカッコは?」  そう言われて、わたしはじぶんの装備を見下ろした。  懐中電灯にヘルメット、水筒、スコップ、そして、めいっぱい物のつまったリュックサック等々。自慢げに、わたしは腰に手をあてた。 「家にあった防災グッズだよ。リュックはお父さんの。これなら、アマゾンのジャングルで遭難しても大丈夫だね。おなじ間違いは二度としないほうなの、わたし」 「それが嘘っぱちだってのは、おまえがまたここに来ちまってる時点でわかる……そうだそうだよ! なんでまたノコノコ現れた!?」 「学校が終わったからだよ。べつにわたし、クラブとか入ってないし」 「ああ、狂気と混沌の支配する霊廟が、いつの間にか女子中坊の放課後の寄り道にされちまってる。めんどくせえ、うざってえ。だいたい、どうやって探しだしたんだよ、この空間を。次元の配置はめちゃくちゃにシャッフルして、いやっちゅうほど何重にも結界を張り巡らせといたはずだぜ?」 「だってこのまえ、矢印ひいてくれたじゃない。ここから、入口まで」 「バカ、あれは呪力でできた文字だ。浮かびあがってるのは、ほんの一時だけ。ちょっと経てば、塩をかけられたナメクジみたいに矢印は消える。いちおう聞いとくが、その矢印の方向、どっち向いてた?」 「え? もちろん、この部屋にだけど」 「やっぱりそうか。なんなんだおまえはよ……時空の壁をぶち破って、俺の居場所を直接探知してやがる。おい」  それとなくわたしが胸に抱いた子イノシシを、ナイアルラソテフは、その大きな黒翼で器用に指さした。頬ずりまでするわたしに、低い声で警告する。 「いじめるなよ」 「ぬいぐるみみた~い」 「まえのデカい台風のとき、親とはぐれちまったらしい。いまは俺のともだち……いや緊急時の非常食だ」 「〝暗黒神〟が非常食ぅ?」 「なんでそのタイミングで異名を思いだす?」 「照れなくてもいいじゃない。テフもいないんでしょ、ともだち?」 「〝も〟ってなんだよ、失礼な。いっしょにするんじゃねえ。俺とおまえじゃ、人生経験が宇宙単位でちがう」  ふかい溜息をついて、ナイアルラソテフは天井をあおいだ。  燃える三つの瞳は、暗闇のむこうに、なにか遠い過去を見ている。 「そう、仕事柄、いろんな人間に会った。内容は少々ダークだが、それなりに馬の合うやつもいたさ。そして、俺から渡せるものと、あいつらが欲しがるものは、皮肉にもいつも一緒だった」 「なんか複雑そうだね。恋のはなし?」 「かけらでもそれがありゃ、俺もひとり、こんな閉鎖空間に引きこもったりはしなかったかもな。べつの宇宙のへんてこな機械だったり、ちょいワルな呪力の知識……俺からの友情の印を受け取ったとたん、あいつら、みんなどっか行っちまったよ。ゆがんだ狂気の角度や、宇宙の霧の果てとかに。もう、イヤんなっちまってな」 「……かなしいね。どんな人であっても、もう二度と会えなくなるのは、じぶんのなにかが欠けるのと同じ。同じ時間と場所で過ごした、大切な思い出だからね」  寝ぼけて足をぴくぴくさせる子イノシシにほほ笑みながら、わたしはささやいた。 「じゃ、わたしがともだちになってあげる。わたしは、なにもいらないよ」 「ほう? 肉体と魂もか?」 「タマシイ? 肉? それあげたら、わたし痩せれる?」 「いや、聞かなかったことにしてくれ。まいったまいった」 「ようは、話し相手になるって言ってるの。こんなにたくさん〝矢印〟の向いてる人、わたし初めて。だから、ね? ト・モ・ダ・チ!」 「まっぴらごめんだ。このスポンジケーキ頭が」  そっぽを向いた輝く三眼をよそに、わたしはリュックをあさった。 「イケニエ、だっけ? いっぱいもってきたんだけど」 「……アメか?」 「だけじゃないよ。ポテチにジュース、サンドイッチ、あとあと……」 「…………」  翼と翼でまた器用に腕組みすると、テフは目をつむった。三つとも。人間でいうところの沈思黙考の状態だ。しばらくして、テフはつぶやいた。 「ナコト、だったな?」 「うむ?」  お菓子が口に入っているため、わたしの声はすこしくぐもっていた。  食べ物のにおいにつられたのだろう。目を覚ましたあの子イノシシも、わたしの膝に乗りあげて、かわいらしい鼻をひくつかせている。  ナイアルラソテフは、かすかに笑ったようだった。 「俺の分も残しとけよ」
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