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暗闇に、なにかの息が響いていた。
わたしのものでなければ、人間のそれでもない。
足音をしのばせ、わたしはホコリのつもった祭壇にたどりついた。
我知らず、生唾をのんでしまう。祭壇のうえで、なにかがゆっくり蠕動しているではないか。
生きている。しかし、人間ではない。さきほどから寝息をたてているのも、そのおぞましい影だ。これはいったい……
ぱちんと懐中電灯の光をともすや、わたしは瞳をかがやかせた。
祭壇にころがって眠りこけるのは、ツンツンした毛の茶色い物体……てのひらサイズのイノシシのこどもだ!
「ちっちゃ~い! か~わい~!」
子イノシシを撫でまわすわたしを、不気味な風が襲ったのはそのときだった。
振り返ったときにはもう遅い。わたしの背後には、三つの赤い瞳が燃えている。
遺跡の住人。
しどろもどろに、わたしは挨拶した。
「このまえはありがとう、染夜です。え~っと、イア、イソ」
「……ナイアルラソテフだ。あいにく名刺は切らしてる。呼びにくけりゃ〝暗黒神〟〝盲目にして無貌のもの〟〝這い寄る混沌〟、どれでもいいぜ」
「言ってる端から忘れてってるよ……そうだ! ないあるらそてふ、略して〝テフ〟なんてどう? うん、かわいい。そうしよう!」
「名前をメモひとつしてもらえないとは、俺ら〝星々のもの〟もマイナーになったもんだな。ところでおまえ、なんだそのカッコは?」
そう言われて、わたしはじぶんの装備を見下ろした。
懐中電灯にヘルメット、水筒、スコップ、そして、めいっぱい物のつまったリュックサック等々。自慢げに、わたしは腰に手をあてた。
「家にあった防災グッズだよ。リュックはお父さんの。これなら、アマゾンのジャングルで遭難しても大丈夫だね。おなじ間違いは二度としないほうなの、わたし」
「それが嘘っぱちだってのは、おまえがまたここに来ちまってる時点でわかる……そうだそうだよ! なんでまたノコノコ現れた!?」
「学校が終わったからだよ。べつにわたし、クラブとか入ってないし」
「ああ、狂気と混沌の支配する霊廟が、いつの間にか女子中坊の放課後の寄り道にされちまってる。めんどくせえ、うざってえ。だいたい、どうやって探しだしたんだよ、この空間を。次元の配置はめちゃくちゃにシャッフルして、いやっちゅうほど何重にも結界を張り巡らせといたはずだぜ?」
「だってこのまえ、矢印ひいてくれたじゃない。ここから、入口まで」
「バカ、あれは呪力でできた文字だ。浮かびあがってるのは、ほんの一時だけ。ちょっと経てば、塩をかけられたナメクジみたいに矢印は消える。いちおう聞いとくが、その矢印の方向、どっち向いてた?」
「え? もちろん、この部屋にだけど」
「やっぱりそうか。なんなんだおまえはよ……時空の壁をぶち破って、俺の居場所を直接探知してやがる。おい」
それとなくわたしが胸に抱いた子イノシシを、ナイアルラソテフは、その大きな黒翼で器用に指さした。頬ずりまでするわたしに、低い声で警告する。
「いじめるなよ」
「ぬいぐるみみた~い」
「まえのデカい台風のとき、親とはぐれちまったらしい。いまは俺のともだち……いや緊急時の非常食だ」
「〝暗黒神〟が非常食ぅ?」
「なんでそのタイミングで異名を思いだす?」
「照れなくてもいいじゃない。テフもいないんでしょ、ともだち?」
「〝も〟ってなんだよ、失礼な。いっしょにするんじゃねえ。俺とおまえじゃ、人生経験が宇宙単位でちがう」
ふかい溜息をついて、ナイアルラソテフは天井をあおいだ。
燃える三つの瞳は、暗闇のむこうに、なにか遠い過去を見ている。
「そう、仕事柄、いろんな人間に会った。内容は少々ダークだが、それなりに馬の合うやつもいたさ。そして、俺から渡せるものと、あいつらが欲しがるものは、皮肉にもいつも一緒だった」
「なんか複雑そうだね。恋のはなし?」
「かけらでもそれがありゃ、俺もひとり、こんな閉鎖空間に引きこもったりはしなかったかもな。べつの宇宙のへんてこな機械だったり、ちょいワルな呪力の知識……俺からの友情の印を受け取ったとたん、あいつら、みんなどっか行っちまったよ。ゆがんだ狂気の角度や、宇宙の霧の果てとかに。もう、イヤんなっちまってな」
「……かなしいね。どんな人であっても、もう二度と会えなくなるのは、じぶんのなにかが欠けるのと同じ。同じ時間と場所で過ごした、大切な思い出だからね」
寝ぼけて足をぴくぴくさせる子イノシシにほほ笑みながら、わたしはささやいた。
「じゃ、わたしがともだちになってあげる。わたしは、なにもいらないよ」
「ほう? 肉体と魂もか?」
「タマシイ? 肉? それあげたら、わたし痩せれる?」
「いや、聞かなかったことにしてくれ。まいったまいった」
「ようは、話し相手になるって言ってるの。こんなにたくさん〝矢印〟の向いてる人、わたし初めて。だから、ね? ト・モ・ダ・チ!」
「まっぴらごめんだ。このスポンジケーキ頭が」
そっぽを向いた輝く三眼をよそに、わたしはリュックをあさった。
「イケニエ、だっけ? いっぱいもってきたんだけど」
「……アメか?」
「だけじゃないよ。ポテチにジュース、サンドイッチ、あとあと……」
「…………」
翼と翼でまた器用に腕組みすると、テフは目をつむった。三つとも。人間でいうところの沈思黙考の状態だ。しばらくして、テフはつぶやいた。
「ナコト、だったな?」
「うむ?」
お菓子が口に入っているため、わたしの声はすこしくぐもっていた。
食べ物のにおいにつられたのだろう。目を覚ましたあの子イノシシも、わたしの膝に乗りあげて、かわいらしい鼻をひくつかせている。
ナイアルラソテフは、かすかに笑ったようだった。
「俺の分も残しとけよ」
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