第三話「矢印」

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 その日もわたしは、いつもどおり遺跡のテフに会いにいった。  だが、きょうは少しばかり普段とちがうことがある。  わたしの〝矢印〟が、うしろばかり指さすのだ。  それは、わたしがテフのことを考えた時点からはじまり、遺跡に近づけば近づくほど〝矢印〟はより明確にじぶんの存在をわたしにうったえた。これだけはっきり見え、また反抗されたことは記憶にない。  とにかく〝遺跡にちかよるな〟ということか? 「わかったよ。きょうはなるべく、すぐ帰る。それでいいんでしょ?」  せっかくのわたしの妥協にも、〝矢印〟は動じなかった。  それどころか、なんだろう。ひたすら遺跡の外をしめすその姿が、血のような赤色に染まって見えるではないか。 「怒って……いるの?」  日々通いつめたせいか、わたしは遺跡内の道順をほとんど覚えていた。  テフの聖域は、あの通路をまがってすぐだ。〝矢印〟のこと、ちょっと相談してみよう。 「!」  おおきな揺れが、遺跡を襲ったのはそのときだった。  思わずよろめくわたし。天井から、石のかけらとホコリが舞い落ちる。  天辺山が、また土砂崩れを起こしたのか?  ふとわたしは、聖域の入口あたりで、なにかが動いたのに気づいた。  あの子イノシシだ。ときどき聖域の中をのぞいては、ぺたりとその場に座りこみ、困ったようにうなだれている。あやまって蹴飛ばさなくてさいわいだ。  そっと忍び寄ると、わたしはうしろから子イノシシを抱きあげた。 「あらら、震えてるじゃない。テフとケンカでもした?」  ふたたびの地震に、わたしは目を剥いた。  近い。とても。それにこれは、外からのものとは違う。テフの聖域の中からだ。  入口横の壁に背中をつけると、わたしは耳をそばだてた。  最初にきこえたのは、テフの苦しげなうめき声だ。 「ハスター、てめえ……ぶっ殺す!」 「それは無理だ、ナイアルラソテフ」  答えたのは、おそろしい笑い声だった。  たとえれば、そう。その不気味さは、夜の墓場に吹く風を連想させる。  ハスターと呼ばれた存在は、愉快そうに続けた。 「ここにあるのは、わたしの腕のごく一部だけ。それもじきに、おまえの次元干渉にのまれて消える。ほんとうにわたしと相対したければ、わたしの本体をこの空間へ招き入れるほかない。どうかね?」 「おことわりだ。この遺跡を守る迷路は、おまえみたいなバカでかい力にいちばんよく効く。まばたき一回ごとに組みかわる千通りの道に迷って、いまみたいに、ちっぽけなタコの手だけがゴールするのがオチさ。入れるもんなら、勝手に入ってきやがれ」  そっけないテフの切り返しを、ハスターは尊大な笑いをもって受けた。 「そうさせてもらおう」 「あん?」 「つい最近、興味深いうわさを風に聞いた。このあたりに、優秀な探知の呪力をもつ人間がいるそうではないか。混沌界の迷路を切り開き、突破するのにふさわしい力だ。いつの時代にも必ず、そんな不運な探求者はひとりは存在するものだな。だからこそ、われわれも悪夢の存在として語り継がれる。そうだろう、ナイアルラソテフ?」 「……!」  テフが絶句するのは、わたしからもはっきり感じ取れた。なにをそんなに動揺しているのだろう?  とぼけたように、テフは聞いた。 「で? そのカーナビみたいなやつに、正解の道でもたずねるつもりかい? やめとけやめとけ。そんないるかどうかも分からねえやつ、探すだけムダだ」 「それもそうだな。いずれにせよ、わたしがその探求者を見いだしたとき、おまえの消滅は確かなものとなる。ああ、さいしょに言ったあれ。おまえの結界を解いて、この地をわたしにゆずる件、一考しておきたまえ」 「待ちやがれ!」  テフの怒号に、ハスターの深い笑いが重なった。  刹那、聖域の闇を照らしたのはまばゆい輝きだ。わたしが背をつけた壁に、糸のように細い光のすじが走り……超巨大な光の刃ともいうべきそれは、石造りの壁をバターのように切り裂いて、反対側の壁まで抜けた。  切断された壁があちらからこちらまで倒れる地響きが、つづけざまに轟く。  それきり、ハスターの声はぷっつり途絶えた。  しばらくして、ななめに割れた壁のうえから、おそるおそる顔をのぞかせたのはわたしだ。  あぶなかった。とっさにしゃがみ込んでいなければ、胴体からまっぷたつに切れていたかもしれない。  ぷるぷる震える子イノシシを抱いたまま、わたしはささやいた。 「テフ、テフ。わたしだよ」 「ナコト……」  火の玉めいた三つの瞳は、そっぽを向いてしまった。 「なに、さっきのあいつ? すごくイヤな感じがしたんだけど、だいじょうぶ?」  心配げなわたしの言葉にも、なぜかテフは答えない。  わたしは、直感的に気づいた。 「テフ、ケガしてるんだね。ちょっと待って。応急処置の道具は、と」 「帰れ」 「え?」 「帰れって言ってんだ!」  あまりの口調の強さにショックを受け、わたしは目をみひらいた。 「なんで……? なんでちゃんと話してくれないの? ねえ、なにがあったの?」 「なにがもクソもねえ。ありえねえ。人間ごときが、ここにいること自体がな」 「それって、わたしのこと?」 「おまえ以外にだれがいる、染夜名琴。なんか勘違いしてないか? 俺は、ナイアルラソテフってのは、この世の諸悪の根源だぜ? 別角度の外時空から、人間どもに終わりを告げにやってきた。そんな異世界の悪魔が、おまえみたいな人間ふぜいと対等におしゃべりする? ……身分をわきまえな!」  ぼうぜんと口をあけるわたしに、テフはとどめを刺した。 「ここまでだ、おともだちごっこは。おまえの妙なセンサーでも道がわからないよう、遺跡には厳重に細工しとく。こんどもし、この遺跡、いや、この山に足を踏み入れやがったら……殺す」  いきなり吹いた突風が、わたしの目尻から輝く水滴をとばした。  気づいたときには、テフの姿はどこにもない。  いったい、どのくらいその場に突っ立っていたろう。  ずっと抱いたままだった子イノシシを、わたしは静かに床へおろした。どこか悲しげに見上げてくるそのつぶらな瞳に背を向け、出口へ向かう。 「おまえを巻き込むわけにはいかないんだ……ごめんな、ナコト」  さいごに聞こえた誰かの声も、きっと、わたしの願望がつくりだした空耳だ。
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