第一話「魚影」

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 六限目のチャイムは、恐怖に満ちた授業からエドを解放した。  カバンに教科書をつめこんで、そそくさと席を立つエド。一刻も早く教室を出たい。  斜め後ろの席につく危険人物は、さいわい、まだ機械的にペンケースへ文具をしまっている。  早足に歩きだそうとした途端、エドはずっこけた。 「うえッ!?」  はでに床へ腹を打ち、エドはしばし奇妙な昆虫のようにもだえた。  だれかに足をかけられたのは間違いない。  だが、だれが?  あのとおり、クラスメイトたちは運動オンチな自分をくすくす笑いながら、最後のひとりまで教室を出てしまっている。  エドと、染夜名琴だけを残して。  なんだろう。ナコトの机の横にかけられた通学カバンに、なにかが飛び込んだようにエドには思えた。小さくて素早いなにかの影が。得体のしれないその存在が、何席か離れたナコトにかわって、自分を襲ったというのか? 「凛々橋恵渡、だな?」 「!」  エドは息をのんだ。  冷たく自分を呼んだ声は、誘拐犯のキンキンした男の声とは似ても似つかない。だいぶトーンは低いが、いちおうは歳相応の女子の声だ。  では、朝に自分へ殺害予告をもたらしたあの声は一体?  女の声のまま、ナコトは問うた。 「久灯瑠璃絵……クトゥルフになにを吹き込まれた?」 「…………」  ようやく呼吸ももとに戻り、エドは立ち上がって制服のホコリを払った。こんどは用心深く床を確かめながら、無言で出口へ向かう。  エドの足を止めたのは、ナコトの次のひとことだった。 「久灯瑠璃絵は、わたしが仕留める」 「……なんだって? なんでだよ?」 「わたしの目的に、やつの存在が邪魔だからだ。やつは、この世にいてはならない存在なんだよ」 「また頭のおかしいことを……いてはならないのは、そっちの方だ、染夜名琴。さらった人たちは無事なんだろうな?」  教科書のたばを机の上でまとめながら、ナコトはさらりと答えた。 「湖の底だ」 「ああ……なんてことを。お前、それでも人間か?」 「いいや。魂も悪魔に売ってある。いがいと悪くない値段だった」  窓の外、ランニングする運動部の列を、ナコトはメガネの奥からものうげに眺めた。 「忠告しておく。命が惜しければ、もうこれ以上、あの女には深入りしないことだ。まきぞえを食いたくはなかろう?」 「聞いたとおり、やっぱりお前は悪の源だ。いまぼくを、背中から撃ちたければ撃てばいい。でも、染夜名琴……久灯さんは、絶対にお前なんかには負けない」  出口へ向かうエドを、今度こそナコトは止めなかった。  教室から抜け出すや、おもいきり息を吐いたのはエドだ。毛穴という毛穴からは冷や汗が吹き出し、バクバクいう心臓はいまにも破裂しかかっている。  あくまで強がってはみたものの、今夜は明かりを消して眠れそうにない。それでも、予想した最悪の事態はまぬがれた……  いや、まだだ。  エドの顔から、血の気がひいた。  エドの背後から、教室の中から、いるはずのない三人目の声が響いたのだ。  あのキンキンした笑い声が。 「ぎゃはははは! 聞いたか!? さっきの聞いたかよナコト!? あのクソガキ! これから自分がどんな目に遭うかわかってねえ! ぜ~んぜん、わかってやがらねえぜ!」  耳をふさいで逃げるエドを、笑い声はひたひたと追ってきた。
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