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とぎれなく反響するカエルの大合唱で、エドは耳がおかしくなる気分だった。
夜の美須賀湖。
雲は月を隠し、湖は静かに黒い水をたたえている。エドが片手の懐中電灯を消せば、砂浜は一瞬で真っ暗闇に包まれてしまうはずだ。
それにしても、妙に風がなまぬるい。
おまけに、この魚市場そっくりの臭いには鼻をつまみたくなる。だだっ広いとはいえ、美須賀湖はたしか淡水のはずだが?
昼間の図書室で、エドとルリエは、ここでの待ち合わせを約束したのだ。
「いったい何だろう? 〝儀式〟って?」
ルリエいわく、エドがともに自分と戦い、助けあい、世界を救う者になるには、その儀式とやらが必要不可欠だそうだ。内容はごく単純で、すぐ済むものだともルリエは言っていた。
もちろん不安がないわけではない。それでも、あの美しい同級生が、ひとりで悩み、傷つき、戦うのをわずかでも軽減できるのであれば、お安い御用だ。
またエド自身、あの染夜名琴からいつまでも逃げまわっていたくはなかった。どんな形でもいいから、決着をつけなければ。
湖に背中を向け、エドは携帶電話の時計を見た。
「遅いなあ。ほんとに大丈夫かい、久灯さん? ここまでの道はかなり悪いよ。あの誘拐犯がうろついてるかもしれないし、だからぼくは昼間にしよう、って……」
ふいにエドは凍りつくはめになった。
うしろの湖で、いきおいよく水音が鳴ったのだ。
近い。それに、よほど巨大な魚が飛び跳ねたと思われる。
おそるおそるエドが顔を向けた先に、なにかがいた。
人の形をした黒いものが。
「こんばんわ」
「ひゃッ!?」
腰を抜かし、エドはおもいきり尻餅をついた。
それが誰かわかったのは、懐中電灯がその整った容貌を照らし上げたときだ。
「久灯さん……おどかしっこはナシだよ。そういうの苦手なんだ、ぼく」
「ごめんなさい。凛々橋くんの姿を見たら、つい嬉しくなっちゃって」
小さく舌をだして、ルリエはほほえんだ。
安心ばかりで、エドは気づかない。
数時間も前に学校は閉鎖されているのに、なぜかルリエが制服のままであることを。
これほどの真っ暗闇なのに、ルリエがライトのひとつも持っていないことを。
ルリエの瞳の奥に、奇妙なかがやきが宿っていることを。
「来てくれたのね。こんな夜遅く、ありがとう」
「とんでもない。久灯さんこそ、ぜんぜん疲れてないね。フェンスを乗り越えて、あんな暗いでこぼこ道を歩いてきたのに。もしかして、美須賀湖をクロールしてきたとか?」
一瞬、ルリエは表情をなくしたが、すぐに満面の笑みに戻った。
「ばれちゃったみたいね。そ。あたしは実は、水の底の国から来た人魚なの」
ルリエとエドは、おたがい笑いあった。
「で、久灯さん。例の儀式っていうのは? いちおう、筆記用具は持ってきたけど」
「えらいわ、凛々橋くん。でも」
「!」
甘く柔らかい感触とともに、エドは視界がなくなるのを感じた。
なんのためらいもなく、ルリエがその唇に唇を重ねたのだ。
長く、そして深く。
「水の底に……〝あたしの世界〟に、人間の道具はいらない。あと、その不便な体と、やさしすぎる魂も」
糸をひいてルリエの唇がはなれたとき、エドは完全に意識を失っていた。
「凛々橋くん。いま夢の中? なら、見えるわね。ちょっぴり恥ずかしいけど、〝それ〟があたしの真の姿。あたしが人魚だというのは、じつは本当なの。背中からは汚い羽が生えてるし、顔からもタコの腕みたいなのがたくさん生えてるけど、あまり気にしないで。あたしたち〝星々のもの〟はみんなそんな感じだから」
突然ルリエは、なにを言い始めたのだろう?
ルリエの姿はもちろん、かわいい女子高生そのものだ。だが、現実の楔から解き放たれ、エドが夢の角度から見るルリエは、そうではない。
その証拠に、おお。立ったまま気絶したエドの体は不規則に震え、その目からは涙があふれているではないか。
恐怖だ。体の自由を奪われ、悪夢のみを見せられている。エドの瞳に反射するルリエは、もはやルリエの形をしていなかった。
「真実の目で見てごらん、あの湖を。深い水の底、底の底の底のほうを。ほら、たくさん泳いでるでしょ?
人は彼らを〝深きもの〟と呼ぶ……じつを言うとね、赤務市ではだれも失踪してなんかいないわ。ちょっぴり長いあいだ人間の世界をはなれてるだけで、みんな、この湖にいる。あたしの魔法のお願いを聞いてくれたの。あたしの〝呪力〟で、みんなの手には水かきが生まれ、首には水の中で息をするためのエラ、ひ弱だったお肌も丈夫なウロコで強くなった」
無言のエドへ歌うように耳打ちすると、ルリエは八重歯を剥いて笑った。美須賀大附属のアイドルがこんな顔をするのを、いまだかつて見た者はいない。
やさしく撫でたエドの頬から、ルリエはしたたる涙を指でぬぐった。
「〝世界を救う〟っていう話をしたじゃない? 何事もまずは、はじめの一歩が肝心。最初に救わなければならないのは、あたしの世界よ。そのためには〝深きもの〟の働きはとても大切なの。何百年かぶりに、これだけの数に集まってもらうのは大変だった。でもそれも、凛々橋くんに出会えたおかげで、ようやくスタート地点に立てそう。凛々橋くんにはしっかり仕事を覚えてもらって、ゆくゆくは〝深きもの〟たちのリーダーになってもらいたい」
上機嫌に鼻歌を歌いながら、ルリエはエドの手をとった。
その手をひいて、ゆっくり水辺へ歩き始める。信じがたいことに、たしかに意識はないにもかかわらず、エドはふらふらとだが自分の足でついていった。
顔をふせ、すこし頬を紅潮させて告げたのはルリエだ。
「はっきり言います。あの日からあたし、その、好きになってしまったの。凛々橋くんのこと。あたしの取り留めもない話にも、凛々橋くんはちゃんと耳をかたむけてくれた。強いだの頑丈だの言われてばかりのこんなあたしを、親身になって心配してくれた。いままで生きてきた中で、あなたみたいな男性ははじめて……真剣よ、あたしは」
学生靴が水に触れたあたりで足を止め、ルリエはエドに振り向いた。
そのときには、ルリエの背後ではおぞましい異変が生じている。
水面を裂いて飛び出し、すぐに水底へ沈む背びれ。大きい。
まるでエサをまかれたコイが一点に集中するかのごとく、水かきが、うろこが、吐き気をもよおす輝きをまとって絡まり合っている。
そして、ああ。みにくく変形してはいるが、その影はどう見ても人だ。魚だ。
赤務市でこつぜんと失踪した三十数名を、久灯ルリエがその〝呪力〟をもって、ていねいに異世界の水へ適応させた結果だった。
〝深きもの〟
「怖い? ええ、誰でもそうなって当たり前。だいじょうぶ、あたしが付いててあげるから……だから、凛々橋くん」
かわいく小首をかしげて囁くと、ルリエはエドに薄いてのひらを差し伸べた。
全身が石と化したエドは、とうぜん期待にこたえられない。
いや、あらがっているのだ。こきざみに痙攣するエドの腕は、その手が思わず持ち上がろうとするのを必死におさえていた。
だが、彼の意思が恐怖と絶望に負け、ルリエと手をつないで湖へ一歩踏み出したとき、エドは〝深きもの〟への仲間入りをみずから承諾したことになる。
異様な水棲生物たちのカエルじみた鳴き声は、やがて、ウォーウォー吠える野獣のそれへと変じていた。
見よ。水しぶきをまとって手招きするおびただしい水かきを。雲間から現れた月に反射する目、目、目を。
エドを歓迎しているのだ。もとは罪のない市民だったはずの彼らの精神は、残念ながらとっくの昔に狂ってしまっている。
いっそうの呪いをこめて、ルリエはほほえんだ。
「いっしょにいようね、ずっと」
「よくこらえた、凛々橋」
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