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低く冷たいその声が響くや、魚影たちの騒ぎはやんだ。
振り向いたルリエの顔は、凄絶にゆがんでいる。
闇にたたずむあの細い人影はだれだ?
月光に一瞬反射したメガネの輪郭を見るまでもない。両手の拳をきつく握りしめ、ルリエはその名を口にした。
「〝ナイアルラソテフ〟……染夜名琴!」
「こんどは逃がさんぞ、クトゥルフ」
平板な声でそう告げると、ナコトは砂浜へなにかを放り投げた。
砂塵をちらして地面に落ちたのは、通学カバンだ。ナコト自身もまだ制服姿である。
なんだろう? 足もとのカバンへ、ナコトが当然のように語りかけたではないか。
「テフ……ナイアルラソテフ。出番だ。凛々橋が夢を見せられている」
ナイアルラソテフ。それは、高校の図書室で昼間、ルリエがこぼした呪文めいた名前にほかならない。
なんと、カバンはしゃべった。
「夢、か」
遠くつぶやいたのは、あの声だった。
路地裏ではじめて現れ、いくどとなくエドを怯えさせたあのキンキン声だ。
ナイアルラソテフと呼ばれた存在は、カバンの姿をしたまま続けた。
「夢はいい。夢は、俺やそこのクトゥルフの根城だし、故郷でもある。たたき起こしてやってもいいが、さて。凛々橋からすれば、寝てるときと目覚めたあと、どっちのほうが悪夢かな?」
ナコトは、軽く鼻を鳴らしただけだった。
「どうせ、どっちも似たり寄ったりだ。さっさとしろ」
「やめなさい!」
ひきつった悲鳴をルリエがあげたときには、もう遅い。
ナコトのカバンの口が開くや、いきおいよく飛び出したのは小さな物体だ。きわめて短い四本の足で加速をつけ、捕まえようとするルリエの手を巧みにかいくぐる。
にぶい音がこだました。物体の全力のタックルを顔にあびたエドが、おもいきり地面へ吹き飛んだのだ。
鼻からもろに砂地へ突っ込み、そのまま動かなくなる。押し殺した声でルリエはうなった。
「凛々橋くん……」
「……う~ん」
エドはうっすら目をあけた。
なんだこれは? 顔をふって砂を払い落としたエドの横に、毛のツンツンした茶色いものがいる。
犬? 猫? いや……イノシシだ! だがなぜ、山でも森でもないこんな場所に?
イノシシはまだこどもらしく、てのひらサイズしかない。まるでぬいぐるみだ。
その一見子イノシシ……ナイアルラソテフことテフが人語を介し、また、強い呪力によって眠らされていた自分を、突進ひとつで目覚めさせたなど、エドには想像もつかない。
テフのつぶらな瞳は、ある方向を静かに見据えていた。それにならって顔を向けた先、エドの目に映ったのは、対峙するクラスメイトふたりの姿だ。
「久灯さん! それに……染夜、さん?」
「おはよう」
鋭い視線でルリエを射抜きながら、ナコトは答えた。
「夢の中から見たろう? あの湖でうごめいてる失踪者のなれのはて〝深きもの〟を。それから、驚いたんじゃないか。ひと皮むいた久灯ルリエは、あんな姿なのだ。何をされようとしていたのかも分かるな?」
すこし悩んだあと、エドは苦しげにうなずいた。
「だいたいは見てた。とても信じられないけど、でも、本当なんだね。怖かった」
「凛々橋くん!」
大声で割って入ったのはルリエだ。端正な顔は暗くうつむき、肩は震えている。
「あたしを信じて。悪いのはぜんぶ、染夜名琴なのよ」
ルリエの訴えもむなしく、エドはすでにすべてを理解した表情だ。あいかわらず腰は抜かしたまま、そろそろと砂浜を後退し始めている。
燃えるような憎悪を瞳にたたえて、ルリエはナコトをにらんだ。
「染夜名琴……ナイアルラソテフ。いつもいつも、どうしてあたしの邪魔ばかりするの? なんの恨みがあるって言うの? あたしはただ、なくした故郷をもういちど建て直そうとしてるだけなのに」
「ほかでやれ」
ナコトはばっさり切り捨てた。
「関係のない一般人を巻き添えにするその性格、何百年たっても変わらんと見える。おまえの故郷、石の都ルルイエとか言ったか? 迷惑なんだよ、この街でやられては。わたしの標的……ハスターいがいに、もうひとつ、そんな不浄の存在の面倒を見ろと? 漏れ出した呪力にやられて、いったい何人の人間の気が狂うと思ってる? ふざけるな」
ナコトの次のセリフは、傷心のルリエにとどめを刺した。
「そんなコスプレごっこは切り上げて、いいかげん海へ帰れ」
「殺す!」
美須賀大付属のアイドルは、口汚くひと吠えした。
次の瞬間、ルリエには凄まじい変化が生じている。
夢か幻か?
ルリエを中心にして、砂浜へ瞬時に星印……かがやく巨大な五芒星がきざまれたのだ。
とんでもない呪力は突風を起こし、エドとナコトは、たたきつける砂塵から顔を守らねばならなかった。その間にも、五芒星から上昇したまばゆい光は、ルリエの姿を覆い隠している。
めずらしく、ナコトまでもが驚きを口にした。
「完全に〝戻る〟つもりか!? ここで!? いや、〝戻れる〟のか!? テフ、結界はどうした!?」
光の柱のむこうに、エドはたしかに見た。
ルリエの悲しげなほほえみを。
「凛々橋くん、ごめんね、怖い目に遭わせて。でも、あなたを愛する気持ちは……ほんとうなの!」
「久灯さん! 待って!」
エドの制止に答えるように、光の中から手が出た。
するどい爪のはえた腕が。足が出た。巨木の幹のごとき筋骨隆々の脚が。太くたくましい尻尾をひいて。
頭が出た。巨大な顔の口にあたる部分からは、おぞましい物体……タコみたいな吸盤にびっしり覆われた触腕が、おびただしく生えている。
瞳孔のない濁った瞳がかがやいた。月夜に広がったのは、巨大なコウモリの翼だ。異世界の筋肉に鎧われたその体高は、三メートルをゆうに超す。
久灯瑠璃絵……クトゥルフの怪物は、闇に咆哮をはなった。
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