第一話「魚影」

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 低く冷たいその声が響くや、魚影たちの騒ぎはやんだ。  振り向いたルリエの顔は、凄絶にゆがんでいる。  闇にたたずむあの細い人影はだれだ?  月光に一瞬反射したメガネの輪郭を見るまでもない。両手の拳をきつく握りしめ、ルリエはその名を口にした。 「〝ナイアルラソテフ〟……染夜名琴!」 「こんどは逃がさんぞ、クトゥルフ」  平板な声でそう告げると、ナコトは砂浜へなにかを放り投げた。  砂塵をちらして地面に落ちたのは、通学カバンだ。ナコト自身もまだ制服姿である。  なんだろう? 足もとのカバンへ、ナコトが当然のように語りかけたではないか。 「テフ……ナイアルラソテフ。出番だ。凛々橋が夢を見せられている」  ナイアルラソテフ。それは、高校の図書室で昼間、ルリエがこぼした呪文めいた名前にほかならない。  なんと、カバンはしゃべった。 「夢、か」  遠くつぶやいたのは、あの声だった。  路地裏ではじめて現れ、いくどとなくエドを怯えさせたあのキンキン声だ。  ナイアルラソテフと呼ばれた存在は、カバンの姿をしたまま続けた。 「夢はいい。夢は、俺やそこのクトゥルフの根城だし、故郷でもある。たたき起こしてやってもいいが、さて。凛々橋からすれば、寝てるときと目覚めたあと、どっちのほうが悪夢かな?」  ナコトは、軽く鼻を鳴らしただけだった。 「どうせ、どっちも似たり寄ったりだ。さっさとしろ」 「やめなさい!」  ひきつった悲鳴をルリエがあげたときには、もう遅い。  ナコトのカバンの口が開くや、いきおいよく飛び出したのは小さな物体だ。きわめて短い四本の足で加速をつけ、捕まえようとするルリエの手を巧みにかいくぐる。  にぶい音がこだました。物体の全力のタックルを顔にあびたエドが、おもいきり地面へ吹き飛んだのだ。  鼻からもろに砂地へ突っ込み、そのまま動かなくなる。押し殺した声でルリエはうなった。 「凛々橋くん……」 「……う~ん」  エドはうっすら目をあけた。  なんだこれは? 顔をふって砂を払い落としたエドの横に、毛のツンツンした茶色いものがいる。  犬? 猫? いや……イノシシだ! だがなぜ、山でも森でもないこんな場所に?  イノシシはまだこどもらしく、てのひらサイズしかない。まるでぬいぐるみだ。  その一見子イノシシ……ナイアルラソテフことテフが人語を介し、また、強い呪力によって眠らされていた自分を、突進ひとつで目覚めさせたなど、エドには想像もつかない。  テフのつぶらな瞳は、ある方向を静かに見据えていた。それにならって顔を向けた先、エドの目に映ったのは、対峙するクラスメイトふたりの姿だ。 「久灯さん! それに……染夜、さん?」 「おはよう」  鋭い視線でルリエを射抜きながら、ナコトは答えた。 「夢の中から見たろう? あの湖でうごめいてる失踪者のなれのはて〝深きもの〟を。それから、驚いたんじゃないか。ひと皮むいた久灯ルリエは、あんな姿なのだ。何をされようとしていたのかも分かるな?」  すこし悩んだあと、エドは苦しげにうなずいた。 「だいたいは見てた。とても信じられないけど、でも、本当なんだね。怖かった」 「凛々橋くん!」  大声で割って入ったのはルリエだ。端正な顔は暗くうつむき、肩は震えている。 「あたしを信じて。悪いのはぜんぶ、染夜名琴なのよ」  ルリエの訴えもむなしく、エドはすでにすべてを理解した表情だ。あいかわらず腰は抜かしたまま、そろそろと砂浜を後退し始めている。  燃えるような憎悪を瞳にたたえて、ルリエはナコトをにらんだ。 「染夜名琴……ナイアルラソテフ。いつもいつも、どうしてあたしの邪魔ばかりするの? なんの恨みがあるって言うの? あたしはただ、なくした故郷をもういちど建て直そうとしてるだけなのに」 「ほかでやれ」  ナコトはばっさり切り捨てた。 「関係のない一般人を巻き添えにするその性格、何百年たっても変わらんと見える。おまえの故郷、石の都ルルイエとか言ったか? 迷惑なんだよ、この街でやられては。わたしの標的……ハスターいがいに、もうひとつ、そんな不浄の存在の面倒を見ろと? 漏れ出した呪力にやられて、いったい何人の人間の気が狂うと思ってる? ふざけるな」  ナコトの次のセリフは、傷心のルリエにとどめを刺した。 「そんなコスプレごっこは切り上げて、いいかげん海へ帰れ」 「殺す!」  美須賀大付属のアイドルは、口汚くひと吠えした。  次の瞬間、ルリエには凄まじい変化が生じている。  夢か幻か?  ルリエを中心にして、砂浜へ瞬時に星印……かがやく巨大な五芒星がきざまれたのだ。  とんでもない呪力は突風を起こし、エドとナコトは、たたきつける砂塵から顔を守らねばならなかった。その間にも、五芒星から上昇したまばゆい光は、ルリエの姿を覆い隠している。  めずらしく、ナコトまでもが驚きを口にした。 「完全に〝戻る〟つもりか!? ここで!? いや、〝戻れる〟のか!? テフ、結界はどうした!?」  光の柱のむこうに、エドはたしかに見た。  ルリエの悲しげなほほえみを。 「凛々橋くん、ごめんね、怖い目に遭わせて。でも、あなたを愛する気持ちは……ほんとうなの!」 「久灯さん! 待って!」  エドの制止に答えるように、光の中から手が出た。  するどい爪のはえた腕が。足が出た。巨木の幹のごとき筋骨隆々の脚が。太くたくましい尻尾をひいて。  頭が出た。巨大な顔の口にあたる部分からは、おぞましい物体……タコみたいな吸盤にびっしり覆われた触腕が、おびただしく生えている。  瞳孔のない濁った瞳がかがやいた。月夜に広がったのは、巨大なコウモリの翼だ。異世界の筋肉に鎧われたその体高は、三メートルをゆうに超す。  久灯瑠璃絵……クトゥルフの怪物は、闇に咆哮をはなった。
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