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エドは、恐怖に奥歯が鳴るのを感じた。
おそろしい地響きを残して、爪のはえた巨大な足は一歩前進している。
その進路上、唇を噛んでうめいたのはナコトだ。
「そこまで海底の力を取り戻していたか、クトゥルフ。少々あなどった。ナイアルラソテフの結界を無視して、真の姿をあらわすとは……」
エドの横で毛を逆立てるテフへ、ナコトは目配せした。
「テフ! 銃……」
みなまで言わせず、ナコトは吹き飛んでいた。
まっぷたつにへし折れる樹、衝撃に血を吐くナコト。突如かき消えたクトゥルフの触腕が、とらえたナコトを、容赦なく背後の樹へ叩きつけたのだ。
たくましい触腕に宙吊りにされたまま、ナコトは力なくうなだれている。
どう考えても獲物は即死だが、それで許すクトゥルフではない。骨が粉々になるほど触腕でしめつけたナコトを、ほかの樹に、地面に、硬い岩に、何度もぶちあてる。
何度も何度も何度も何度も。かろうじて人の形はたもっているが、ナコトの内部はすでに骨と肉のシェイク状態だ。
過剰なまでのクトゥルフの報復は、しかしどこか、思春期の少女によくあるヒステリーともとれた。
ようやく気も晴れたらしい。ひわいな触腕でからめとったナコトを、クトゥルフは自分のすぐ目の前まで引き寄せた。
耳、鼻、目、口、顔じゅうの穴という穴から血を流しながら、ナコトはだらんとのけぞっている。うつろなその視線は、ひび割れたメガネの奥から、ただただ夜空を見つめるのみだ。
「さっきは好き勝手言ってくれたじゃない。いい感じにほぐれたわね」
口の触腕を盛大にうごめかせて、クトゥルフは笑いを表現した。
信じがたいことに、声は久灯瑠璃絵そのものだ。
「恋が人を変える、と言うのは本当みたいだわ。なんだか最近、自分でもびっくりするくらい調子がいいの。このぶんなら、ルルイエの浮上にも時間はかからなそう」
気づけば、湖の狂宴は最高潮に達していた。
激しい水柱を残し、月に舞い上がる魚影、魚影、魚影。主人の勝利に、無残な血の臭いに興奮しているらしい。
そちらを輝く瞳で一瞥し、クトゥルフは続けた。
「染夜名琴。あたしの故郷をけなしたあなたの罪は大きい。あなたは〝深きもの〟たちへの差し入れよ。ほら、みんな大喜びでしょ。均等に噛みちぎられ、骨のひとかけらまで食べ尽くされなさい」
のけぞっていたナコトの顔が、いきなり引き戻されたのは次の瞬間だった。
轟音……引き戻す勢いを活かして放たれたナコトの頭突きは、見事にクトゥルフの顔面をとらえている。伝説のクトゥルフ神の顔面を。
得体のしれない汁を吐きながら、クトゥルフは顔をおさえて後ずさった。
横合いへ血の混じったツバを吐き、静かに告げたのはナコトだ。
「わたしは不味いぞ……いまだ! テフ!」
「じらしやがって!」
横の子イノシシがそう毒づいたなど、恐怖で放心状態のエドには気づくよしもなかった。
疾走とともに、テフは大きく跳躍している。おどろくべき高さで、ちいさな体を一回転。
なんだろう。テフの回転は、形容しがたい色を混ぜ合わせたうねり……まさしく〝混沌〟へと姿を変え、混沌はさらに、ふたつに別れてナコトへ飛んだ。
一瞬ゆるんだ触腕のすきまから、左右へ広げられたナコトの手の中へ。
轟音と閃光が連続した。
「~~~ッ!」
クトゥルフの絶叫は声にならなかった。
はでに砂浜へぶちまけられるのは、クトゥルフのおびただしい体液だ。
正確に撃ち抜かれ、切断された触腕は、その足もとで不気味に身をくねらせている。
クトゥルフの肩を踏み台に宙返りし、ナコトは地面へ降り立った。ふつうの人間なら十回死んでいるはずの負傷は、いったいどこへ?
「〝恋〟だと?」
つぶやくが早いか、ナコトはいきおいよく身構えた。右腕は強くうしろに引きつけ、左腕は逆に、まっすぐ前へ突き出す。
おお。血まみれの両手にかがやくのは……拳銃だった。それも、二挺。本来の混沌へと戻ったテフが、武器の姿を選んで変身したのだ。
巨大な翼をいからせながら、クトゥルフは雄叫びをあげている。
銃口のむこう、ナコトの目は鋭くなった。
「夢から覚ましてやろう、クトゥルフ」
砂浜は爆発した。
翼をはばたかせて跳んだかと思いきや、クトゥルフが隕石のごとくナコトの上に落下したのだ。
すさまじい圧力をともなって振り下ろされた爪は、ナコトを容赦なく縦五枚おろしにしている。
いや、クトゥルフの下にナコトの姿はない。切り裂いたのは残像だけだ。
どこへ?
硬い音は、頭上の月から響いた。
「!」
真上を見たクトゥルフと、跳躍し、空中で逆立ちになったナコトの目が合った。
下方のクトゥルフを、ナコトの銃口ふたつがぴたりと照準する。
怨嗟の吠え声とともに、クトゥルフは長大な爪をはなった。
「シミヤ……ナコトォォォッッ!!」
撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ。
砂浜を長々と靴でえぐって、ナコトは着地した。
複雑な軌道をえがいて回転した左右の拳銃が、すばやく止まる。
ふたつの銃口を唇の前に立てながら、ナコトは背後のクトゥルフへささやいた。
「おはよう」
銃口から硝煙を吹き消すと同時に、蜂の巣と化したクトゥルフは倒れた。
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