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病気
母は小さな病院の看護師長。そんな母が突然喉にガンを患った。それを治すために放射線治療を受けて一時は坊主頭までなりなんとか完治まで至ったけれど、その代償は大きかった。
唾液が出なくなった母はいつもいつも喉が渇くらしくペットボトルが手放せなくなり、ちょっとでも酸味があるものを「酸っぱすぎる」と言って拒絶するようになった。もう完治して五年も経つと言うのに。
初夏、僕は母のためにと思って土産を持参して実家へと帰省した。普段、地方の病院で働いている僕は両親の近所に住む妹にすべて任せっきりだったけれど、こういう時だけ兄貴面をして現れる。
「ゴールデンキウイなら酸っぱくないから買ってきたけど、食べてみる?」
「いい、要らない。キウイ酸っぱいもん」
「そうかなあ」
僕なりに甘くてビタミンCが豊富な果物を選んでみたつもりだったけど、食べる前から断られてしまった。しつこく食べてもらおうと母に迫るものの「お父さんも同じもの買ってきたから知ってる」と言って一口も食べてはくれない。
「それより、お母さんにパソコン教えてよ? あんたの古いパソコン、家に残ってるから、それお母さんに頂戴」
「ああ。あんなんで良きゃ」
「メールとかやってみたいんだ。お父さんぜんぜんダメだから」
「スマホじゃダメなん?」
「お父さん、スマホ嫌いだから……パソコンでいいよ」
「あ、そう」
さっそく押し入れにあったデスクトップのパソコンを取り出し接続してみた。インターネットを解約していなかったようで、LANケーブルを繋げてコンピューターを起動させると普通に立ち上がった。
「おう、これ使えそうじゃん」
「へえ、良かったわあ」
母は嬉しそうに目を輝かせて微笑んだ。病気になってから一度も見せたことのない希望に満ちた笑顔に僕も心が和む。
「せっかくだから父さんにも教えてあげようよ」と僕が言うと、母の目が少し曇った。
でも僕はそんな母の目を気にすることなく強引に父をパソコン前まで引っ張ってくる。あとあと父から「教えてくれ」と頼まれるのが嫌だったから、いっぺんに教えて済ませたかったのだ。
ところが、パソコンを立ち上げて五分も経たないうちに父は消えてしまった。
「どうも性に合わねえ」と言い「一服してくる」からと煙草を咥えて。
覚える気がない父を見て、こちらもすぐに諦めた。次回「教えてくれ」と言われても、もう教えるもんかと投げやりな気持ちで。
ただ母を見ると、また嬉しそうな顔をしていた。
「母さんは仕事でパソコンくらい触ってるよね」
「勿論よ。ただカルテ書いたり報告書を打ったりしてるだけだけど」
「それが出来りゃあ上等だ」
文字入力から教える手間が省けただけでも助かる。これならメールの設定をしてあげるだけ。アドレスとパスワードを忘れないようにメモを置いておけば、母なら大丈夫だ。
ひとつひとつ教える度にメモを取る母は、さすが看護師さんだと思えるほどだった。
「もう病気治って五年経つし、先生もいいような事、言ってたんでしょ?」
「うん。これで再発はないかなって」
「そりゃあ良かったじゃん。じゃあさあ新しい趣味にパソコンもありだね」
「うん。お母さん島根っ子だから、東京からだとぜんぜん帰れんし、たまには友達とねえ」
「いいじゃん、いいじゃん」
父も僕も悪いのだけど、母が実家の島根に思いを馳せていたなんて思いもよらなかった。僕が小さい頃は大阪に住んでいて島根まで遊びにいった記憶があるけれど、東京へ越してきてからは両親が島根に帰ったという話を聞いたことがない。つまり、母は何年も帰省していなかったのだ。
その後、数日かけてたくさんの友達とメールで話ができるようになったと僕にもメールが届いた。母らしい昔ながらの手紙の書き方。母の年賀状もそうだが、一文字一文字が重く気持ちがこもっているのが分かる文面に、鼻で笑いながらも心の中で感謝していた。
そんな母のメールが届かなくなってから一か月くらい経って、父から電話があった。
「お母さん、倒れた。どうしよう」
父は動揺を隠せず狼狽えているのが電話だけで十分に分かった。再発したのかどうかは分からないけれど、僕が行って確認するしかない。
「すぐ帰るから待ってて。夜中なら二時間くらいで着けると思うからさ」
「ありがとな。でも飛ばさんでええぞ。お母さん、入院したから」
狼狽えている割には、まだ僕を心配する余裕もあるのかと少し安堵する。
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