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 神様、お願い。  今だけでいいから、指先からつま先までなめらかに、思った通り動かせる運動神経をください。せめてこの曲が終わるまでの間だけでいいから。  そう、まるでつばさみたいに。  りくは周囲から染み出るように聞こえてくるクスクスという笑い声を必死で聞こえないふりをしてかわしながら、前で踊るつばさの背中を盗み見ていた。主演の位置で踊る彼の動きはなめらかで自然で、それでいて掲げた指先や前に踏み出したつま先にまで神経が通っていた。稽古の段階で完璧に仕上げられたダンスは、つばさの努力をしるりくには鬼気迫るものにすら見えた。音楽に合わせて決められた振り付けをこなすのさえ満足にできない自分と、ひとつひとつの動きにしっかりと自分の役―――ジョバンニの素朴さをのせてくるつばさの技術を知らず知らずのうちに比べて、心にもやがかかってくる。そうなると踊りのほうもますます上手くいかなくなって、腕を掲げる、前に踏み出す、タイミングをそろえてターンする・・・そんな簡単な動きさえ遅れがちになった。  「またまちがえた、またまちがえた」  「何でりくが1列目なんだ」  「つばさと仲がいいからでしょう」  チームメイトたちの馬鹿にするようなかすかな笑い声は次第に小さなざわめきを作り出し、つばさの隣でカムパネルラ役を代役するためにこちらに背中を向けていた講師にまで伝わった。怪訝な顔で講師が振り向こうとする。  ああまた、俺のせいで曲が止められる、と思ったその時。  講師の隣で踊っていたつばさが不意にターンの方向を間違え、講師に派手にぶつかった。骨同士がぶつかる鈍い音がして、驚いた仲間たちが動きを止めた。つばさが華奢な体をひねり、表情をゆがめて床に倒れていた。切りそろえたつやのある前髪がかかる色の白い額は、いつもより心なしか青ざめて見えた。講師が小さな悲鳴を上げ、レッスン場がにわかにどよめいた。  「まちがえた、まちがえた」  「つばさが振りを間違えるなんて、めずらしい」  「しかも、あんなに派手に」  講師は慌ててつばさに駆けより、怪我はないかと尋ねた。頷く彼の手を引いて座らせ、関節を伸ばしたりして確認する。音楽を止めるように言われて、呆然としていた仲間たちが慌ててCDデッキに走って行った。  りくがあんぐり口を開けて彼の様子を見つめていると、しなやかな足を前にゆっくりと伸ばしながらつばさがこちらを振り向いた。りくと目が合うと、彼だけにわかるように生意気そうににやりと笑った。先ほどの青ざめた表情が嘘のようだ。それから二重の目をきゅっと細めてデッキに群がる仲間たちを一瞥すると、またりくに視線を戻し、もう一度口元をゆがめた。その表情にりくはすべてを悟る。  そうだ。今朝の自主練の時には既に完璧に踊れていたつばさが、あんなわかりやすいミスをするわけがないのだ。  りくは嬉しいけれど情けない、それでもやっぱりありがたいような気持ちになって、つばさに小さな笑みを返した。彼はそれを確認するとすぐにりくから目を逸らし、彼の足を心配そうに揉む講師に笑ってお礼を言った。  「気をつけてくれよ。もうすぐ俺の位置は永瀬さんになるんだから。・・・それに、つばさの怪我だって心配だ」  「わかってます。すみません」  講師はもう一度心配そうに顔をゆがめて彼の肩をねっとりと撫で、立ち上がった。つばさは誰にも気づかれないようにさりげなく触られた場所を払って、それから何事もなかったかのように立ち上がった。  
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