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弁当のからを片付けるために楽屋を出たりくは、2人きりの廊下、ゴミ箱の前で急につばさに手首を掴まれた。振り向くと彼はひどく思い詰めたような、真剣な表情でりくを見つめていた。
「どうしたの、今日なんかおかしくない」
「お前、俺のこと避けてるだろ」
「は?誤解だよ」
そう応えて、りくはゴミ箱に弁当のからを捨てた。避けていた訳では確かにないが、今日は朝からつばさと話すチャンスがなかった。普段なら話す機会を作りに行くだろうが、今日は昨日の続きだ。昨日の帰り、今後の展望について腹にもっていた一計をつばさに感じ取られたかもしれなかった。それについて探られるのが嫌で、あえて話しかけなかった。
「朝から話すチャンスがなかっただけ。そんなこと気にするなんて、つばさも可愛いとこあるじゃん」
「ちゃかすなよ。・・・ねえ、お前俺に何か隠し事してる?」
「はあ?」
心臓がドキンと跳ねたのを抑えて、必死に演技しながら振り返ると、彼を見つめるつばさと真っ直ぐ視線がぶつかった。その目は真剣そのものだった。普段のスカした目や、馬鹿にしたような目とは違う。すがるような目だった。誰かにすがる、という行為は一匹狼のつばさには全く似合わないのに、とりくは驚いて、絶句する。悔しそうに唇を噛み、鼻筋が伸びて見える。まぶたが花開くときのようにあざとく開いて、赤目のふちに涙が浮かんでいた。
「やめる、とか考えてないよね」
彼の声は妙に澄んで、感情が抜け落ちているようにも聞こえた。なめらかな唇がまた開く。
「この仕事」
りくは演技も剥ぎ取られ、どこかの淵に立たされたような気分になる。次のセリフを言わなくちゃ。違うって、そんなことは思っていないって。言うべきことは頭に入っているのに、口に出せない。ああ、こんなんだからダメなんだ、とこんなときなのに悔しくて脳の血管が熱くなる。
「・・・どうしたの、つばさはそんなこと言う奴じゃないじゃんか」
たっぷり間が空いた最悪のタイミングで絞り出した言葉は、またつばさをちゃかすようなセリフだった。最悪だ、とりくは他人事のように思う。つばさがこんな顔をして自分の前に立っているのに、まともな説明1つできないのだ。自分が情けなくて堪らなかったが、それだからだろうか、妙に心は冷静だった。
「喧嘩する暇があるなら練習しようよ」
つばさが何か言おうと口を開いたのを遮るように、りくは笑う。
「ジョバンニ、ラッコの上着が来るよ」
つばさははっと肩をふるわせると、かすかに潤んだ瞳でりくを睨みつけた。怒っているのだろう。真剣に問い詰めているのをちゃかしたから。
「ジョバンニ、ラッコの上着が来るよ」
もう一度、繰り返した。このセリフは、つばさとりくが唯一舞台の上で交わす会話だった。だからつばさもここだけは覚えているはずなのに、セリフを返してはくれなかった。
廊下の向こうで楽屋のドアが開き、昼食をとりおわった共演者たちがぞろぞろと出てきた。つばさははっと振り返ると、小さく舌打ちをして、りくの隣を足早に通り抜けていった。いつもの親密な2人からは考えられない、冷たいすれ違いだった。
つばさが去ったあと、りくは急に血の気が引いたようになって、その場に座り込んだ。無理に詰めこんだ弁当が戻ってくる気配がする。すぐ鼻先にきた弁当のゴミ袋から不快な臭いがして、目眩がした。
いつか、この仕事をやめたらつばさをなくすだろう、ということはわかっていた。
でもこんなに早くなくすとは、思っていなかったから。
「大丈夫か」
「あんなに急いで食べるから」
「本当に変な奴らだなあ」
気がついた共演者たちがりくを囲んで体に触れたけれど、彼の体は冷えていくばかりだった。
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