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最初に、鼻をつくような薬品の匂いがした。次に機械の立てる低いうなりのような音が聞こえて、瞳の中に少しずつ光が戻ってきた。視界が狭い。もっと目を大きく開けてあたりを見回したかったが、目はうっすらとしか開かず、首も肩も固定されていて動かすことはできなかった。諦めて目玉が動く範囲で見回してみると、どうやらここは病院のようだった。そして俺はしっかりとベッドに固定され、あちこちに管が繋がれているのが感覚でわかった。動こうとすると、体が動くより先に管が動いて全身に違和感が走る。俺は動くことも諦めて、絶望感をやり過ごすべく、しばらく目を閉じた。何をやっているのだろう。なぜこんなことになったのか、詳しくは思い出せない。それに思い出しても無駄なような気がする。
目を閉じた暗闇の中に灯がともるように、何か温かいものが体の上に触れているのを感じた。俺は再び苦労して目を開く。少し目線を下に下げると、りくが横になった俺の腰のあたりに頭をつけて、眠そうに目をしばたかせていた。俺の手に何かを握らせて、その上から自分の手でしっかり握りしめていた。俺の目が開いていることには気がついていないようだ。いや、気づかせることができるほど、俺が目をひらけていないのだろう。
りくの目は真っ赤だった。くっきりした華やかな二重まぶたが、今日は重たげに腫れている。寝不足と泣きすぎ、その両方といったところか。悪く言えばぼんやり、よく言えば穏やかで、彼を取り巻く人間もみな穏やか、そんな彼がこんなひどい顔をしているのを長い付き合いの中でも初めて見た。少しだけ優越感を感じる。いつも俺がどんなにいじめても、仕事で追い詰められても、困った顔をするだけで泣くようなタイプじゃなかった。こいつの泣き顔を見られて、その原因が俺のことだというのは、単純に嬉しかった。俺自身の思考が単一になっている気がする。複雑で奥行きのある思考は浮かんでこなかった。
りくの手を、握ってやろうと思った。そうしたらあいつも少しは泣き止むだろう。俺は普段何も考えずするように、指先に力を入れようとした。
しかし、できなかった。
脳みそと指先、その途中のどこかで道が断絶しているかのように、俺の指示は伝わらない。焦って何度も動かそうとしたが、結果は同じだった。腕も指先も他人のもののように動かない。今度こそ本当に絶望した。もしかしたら、今後訓練すれば何かを握ること位はできるようになるかもしれない。しかしもう2度と、頭の先からつま先まで神経の通った複雑な動きはできないだろうということが本能的にわかった。まるで古いビニールテープの端のように、俺の神経もズタズタに傷ついてしまったのだろう。たとえどんな奇跡が起きたって、ひっくり返った水と同じでぶち破れた神経も元には戻らない。
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