16人が本棚に入れています
本棚に追加
「本当にサギだねえ」
自転車で駅に向かう途中、荷台に乗っていたつばさが前方を指さして、唐突にそう言った。彼の指の先を目で追うと、鳥の書かれたラブホテルの看板があった。切れかけた看板灯に照らされたその鳥はサギというよりペリカンだったが、彼が言うとサギだと思えるような気がする。りくは唐突に始まった芝居に別段驚きもせず、言葉をつなげるようにして続ける。
「目をつぶってるね」
これは今やっている公演のセリフだった。何でもほぼ完璧にこなすつばさだったが、セリフを覚えることだけが不得意で、覚えても覚えても、順番が入れ替わったり不意に忘れてしまうことがよくあった。いつもとっさに機転を利かせて同じニュアンスのセリフに入れ替えたりするから稽古が止まることはなかったが、終わったあとに慌てて覚え直す、ということを繰り返すのが常だった。だからよく、こうしてりくを付き合わせて練習していた。
「ね、私の言っていることがこれでよおくわかったでしょう」
りくは次の鳥捕りのセリフを言った。この次に続くのはジョバンニのセリフだが、一向に黙ったままのつばさに、彼は少し得意げに言う。
「『サギはおいしいんですか』だよ」
つばさは悔しそうに小さく舌打ちをすると、自分の細い太腿を手のひらで叩いた。その拍子に自転車が揺れる。
「危ないなあ。・・・つばさ、自分でふっかけてきたくせに、全然セリフ覚えてないじゃん」
さっきの仕返しのごとく、にやりと笑って言ってやる。でもつばさも負けていない。
「りくはセリフ覚えだけは早いよな。セリフ覚えだけ」
「だけは余計だけど、確かにジョバンニのセリフはもうほとんど覚えたな。もうすぐ鳥捕りのセリフも覚えるよ、つばさがここばかり練習するから」
つばさはげんこつでりくの太腿を叩いた。からかうように笑い続けるりくに、つばさは身を乗り出してじゃあさ、と言った。
「カムパネルラのセリフは?」
「それはもう既に覚えていると言っても過言ではないね」
つばさはふうん、とくぐもった声で言い、それからおもむろに口を開き、カムパネルラ、とりくによく通る声で呼びかけた。
「見て。十字架があんなにも小さく見える」
ジョバンニの切符の章。ジョバンニと親友カムパネルラがほんとうのしあわせを一緒に探そうと約束するシーン。りくは後ろに乗っているのが急につばさでなくなったように感じて、腕に鳥肌が立った。純粋で素朴な声はまるでりくが台本で読んだジョバンニのイメージそのものだった。
「また僕たち二人きりだ。・・・ねえ、カムパネルラ。どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもう、みんなの本当のしあわせのためなら、この体なんか何度だってくれてやる覚悟だよ。あのさそりの星のように」
ときに甘く、ときに冷たく。細かく調子を変えながらセリフを読み上げるつばさの声に、次第に自分が水際に追い詰められていくような心地がした。次のセリフを待ちたくなる気持ちを抑えて、りくは口を開く。足はペダルをこぎ続けている。体と神経が乖離して、舞台の上に立っているときのように神経だけが研ぎ澄まされていくのを感じた。
「うん、僕だってそう思う」
「けれども本当のしあわせはいったいなんだろう」
つばさの声は悲しい愛情に満ちていた。つばさの向こうにジョバンニが透けて見える。問いかける調子ではなく独り言のようにそう呟くと、暗い宇宙にその問いと自分、2人だけで放されたような不安な気分になった。
「僕わからない」
りくは自転車を止めた。2人を乗せた自転車はいつのまにか閑静な住宅街を抜け、賑やかな駅前に到達していた。地下鉄の入り口の前で、つばさを下ろす。
彼は駅前のコンビニの灯りを背に、斜めがけできるトートバックを肩にかけ直しながらイタズラっぽく黒目がちな目を細める。きゅっと口角を上げて笑った口の中から粒ぞろいの真っ白な歯が覗いて、いじわるに言葉を紡いだ。
「僕たち、しっかりやろうねえ。・・・特にりくはダンスの練習を、な」
そう言ってくすくすとからかうように笑うつばさは、もうジョバンニではなかった。りくもなぜか安心して、彼に笑って手を振った。
「また明日」
「じゃあな」
小さく挨拶をして、つばさは振り返ることもなく地下へ続く階段を駆け下りていった。
その華奢な背中を見送って、りくも夜の街を自宅に向かって歩き出す。自転車で稽古場に通うりくは、いつもこうしてつばさを駅まで送り届けていた。
自転車を押して賑やかな駅前の道を今来た方向に戻りながら、ぼうっと空を見上げた。乱視が強く入ったりくの目では、いくらコンタクトレンズで矯正しても星はぼんやりとしか見えない。ひときわ明るい星しか見つけられなかった。それでも夜空を眺めながら、神社でつばさに何をお願いしたの、と聞かれたことを思い出す。この公演が成功しますように、と願ったと答えた。でも本当はそれだけじゃない。いや、違う。この願いには、続きがある。
この公演が、絶対に成功しますように。だって、俺の最後の舞台になると思うから。
ここまでつばさの隣で芸能活動をしてきたら、嫌でも自分の実力を思い知る。今回の舞台のオーディションだって、今までで1番真剣に臨んだのに、結局端役だった。18歳でこの立ち位置はぱっとしないし、さらに経験を積んだところでつばさのような人間には叶わない。芝居は好きだったが、そろそろ自分の人生を真面目に考えなくてはならない時期にきている、とオーディションの結果が発表されたその時、りくは思った。本当は遅すぎるくらいだが、この公演が終わったら本格的に受験勉強をしようと考えていた。
小さくため息をつくと、夜の紺色の空気が白く染まった。何度か空気に息を吹きかけて遊んだあと、淡い微笑みを浮かべて、りくは自転車に飛び乗った。
最初のコメントを投稿しよう!