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  カンパネルラ役の永瀬ユウは今旬の俳優だった。もともとはアイドルだったが、春に公開された映画で大ブレイクし、バラエティやドラマに引っ張りだこで、今回の舞台も主演ながら稽古に合流したのはかなりあと―――他の出演者たちの演技が概ね固まったあとのことだった。  「永瀬ユウだかモウだか知らないけどさ、俺はカンパネルラはつばさにやってほしかったよ」  初めて永瀬が稽古に参加した日の帰り、つばさを食事に誘った演出家は、ベロベロに酔っ払ってそう言った。左側で肩を貸していたつばさは優しげな苦笑いを浮かべて背中をさすりながら、演出家の頭越しに右側で同じ体勢をとっているりくに目配せをして舌を出した。忌々しそうなその表情に、りくはつい笑ってしまう。  「おおっ、りく。なーに笑ってんだいい度胸してんなーっ」  酔っ払い特有のでかい声でそう叫ぶと、演出家はりくの首に後ろから手を回し、つかみかかるようにして体重をかけた。  「うわあっ、やめてやめて」  「やめないぞう。大体お前は呼んでないのになんで来たんだっ」  「あーはいはいすみませんね、岡さんの大好きなつばさが一緒に来てって言うから」  「だって岡さん、なんだかんだ言ってりくのことも好きでしょう」  つばさが体勢を崩した演出家に顔を近づけて言うと、演出家は2人の間でまんざらでもなさそうに笑ってみせた。大人のくせに遠慮がなくて下品な男だったが、裏表がなくてものが言いやすい彼のことがりくは嫌いではなかった。もっとも演出家はつばさに惚れ込んでいて、りくには見向きもしていなかったが。  「さ、岡さんここ入りましょ。一杯だけ飲んで、トイレ借りたいし」  夜が更けた街の中で煌々とした灯りをともす大衆居酒屋に演出家を押し込んだ。声をかけてくる店員に指を3本出し、奥の席に案内されると、演出家はすぐにトイレに立った。  「介抱しに行かなくていいの」  その背中を見送りながらりくが隣のつばさに問うと、彼は凍てつくような瞳で閉まったトイレのドアを睨みつけながら答える。  「汚ったねえもん。20分待って出てこなかったら諦めて行ってくる」  つばさはだらしない大人には昔から厳しいが、自分と利害関係のある大人にはそれを押し殺し、むしろ取り入って自分を売り込みにいっていた。りくは彼が媚を売るときと吐き捨てるときの落差を見るのが爽快で好きだった。  注文をとりに来た店員にウーロン茶を3つと、小さくて値の張るつまみを2つ3つ頼んだつばさは、座ったままコートをもぞもぞと脱いだ。今日の彼の格好はグレーのニットベストの下に真っ白なコットンシャツというシックな格好だった。いつもはやんちゃなファッションを好むつばさだが、こうして大人と食事に行くときは少年らしいシンプルな服を選んでくる。りくはその姿を見るたびに、オーディションの日の彼を思い出す。つばさはそのセーターについた埃を指先で払いながら言う。  「永瀬、演技ひどかったな」  「うん・・・ていうかセリフすら覚えてなかったね」  永瀬は稽古に7分遅刻して現れ、謝りこそしたが、悪いとはつゆほども思っていないようだった。その後の稽古でもセリフはうろ覚えで、りくが思い描いていたのとはかけ離れたふてぶてしいカンパネルラだった。主演があれでは、演出家がベロベロに酔っ払いたくなる気持ちも理解できる。ただ確かに顔だちは今風で派手で、彼の周りを取り囲む大人たちは狡猾そうだった。しかし何も持たないつばさのほうが何倍も可憐で美しいとりくは稽古中に何度も思った。  「岡さんも言ってたけど、俺もつばさにカンパネルラやってもらいたかった」  りくは真剣に隣に座るつばさの目を見て言った。彼は一瞬不思議そうに彼の目を見つめ返し、それから呆れたように笑う。  「そしたらあいつがジョバンニだよ。俺はジョバンニ好きだから、あんな奴にやってもらいたくないな」  優しい声だった。りくはなぜか切なくなって、きゅっと唇を噛む。その表情をみたつばさはイタズラっぽく笑うと、言葉を重ねる。   「俺おまえのそう言う顔好きだよ」  つばさはいくら呑んでも顔に出ないタイプだったが、もしかしたら少し酔っているのかもしれない、とりくは思った。酔ってる?とからかって返そうとしたとき、トイレのドアが開き、演出家が千鳥足で戻ってくるのが見えた。  「おい、お前あいつが戻ってきたら、トイレ行く振りして帰れ。このあとはどうせキャバクラだからさ」  つばさは演出家との食事の際、深夜を迎える前に必ずこうしてりくをうまく逃がしてくれた。りくがそっと頷いたその時、演出家はちょうど席に戻ってきた。  「絶っ対に再演するぞ!!次はこと座が空にあがる頃だ!!」  戻ってくるなり、血走った目でそう叫んだ。不躾なでかい声に、店中の視線が集まる。りくは慌てたが、つばさは全く怯まずににっこりと笑うと、立ち上がって彼の腕を引き、先ほど自分が座っていたのとは反対側の席に座らせた。  「いいですね、季節もちょうど」  「そうしたらな、次のカムパネルラは絶対につばさだから」  演出家はつばさの両手首を握りしめてそう言った。つばさは笑って頷く。  「ありがとうございます。嬉しいな。絶対やろう」  楽しげに答えるつばさの声を聞きながら、りくは胸が苦しくなってくるのを感じた。つばさは芝居が好きだから、酔っ払いに付き合ってやっているというのがあれど、きっと夏の再演がやりたいのは本心だろう。でもその頃にはもうりくはこの業界にはいない。舞台に上がらない一般人として、一般人の集団の中で地に足をつけた人生が始まっているだろう。舞台に上がったときの高揚感も、眩しすぎる照明も、どうにもならない焦りも、つばさと駆ける夜道も、まるで前世の出来事のように意識の底に落として生活を続けるのだ。そう考えた途端に背中に彼の温もりがぽっと灯ったような気がして、どきんと背筋を伸ばす。  その時、つばさがこちらを不意に振り返り、目配せをした。帰れ、と言っているのだろう。りくは切ない気持ちを押し隠して、小さく頷く。後ろ手に鞄を持ち、トイレに行ってきます、と小さな声で言って立ち上がった。出口に向かってそそくさと歩き出した瞬間に、演出家に大きな声で呼び止められた。  「おい、りく。お前も次、来てくれるよなあ」  言葉が背中の真ん中に突き刺さった気がした。すぐに振り返って、頷くなりすればいいのに、体が押しピンで留められたみたいに動かない。  「次はお前がジョバンニやるかあ」  相当酔っ払っている。俺がジョバンニなんてこなせるはずがないのに。  振り返りたいのに振り返れなかった。つばさの視線をも背に感じて、俺はそれに押し出されるように歩き出した。  居酒屋のざわめきの中につばさの声が聞こえた気がしたけれど、俺は振り返らずに店を出て、自転車を止めた駅前まで早足で歩いた。空気の冷たさがつんと鼻の奥に沁みた。  
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