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 「陸はもう、カムパネルラのセリフもジョバンニのセリフも、鳥捕りのセリフまで覚えてるらしいですよ」  電気をつけなくても月明かりで十分に明るい部屋で、俺は気怠くに煙草の煙を吹き出す。燻った煙草の煙が翼の輪郭をうるませる。彼はもてあそぶような手つきで着ていたグレーのニットをハンガーにかけながら、ベッドの上の俺を見上げた。途端に煙にむせて、俯いて咳をする。俺は慌てて起き上がり、彼の裸の背に手を添える。咳に合わせて上下する薄い胸が可憐だ。首筋も肋も、彼は骨まで美しい。きっと骨だけになっても美しいだろう、とつい物騒なことを考える。 彼は咳き込みながら大丈夫、というようにこちらに手のひらを向けると、そのまま俺の顔を見上げた。そしてにっこり笑うと、こちらに手を伸ばす。  「煙草、ください」  吸っていた煙草を差し出すと、彼は無造作に手に持っていた服を床に投げ出し、それを受け取った。それからその可憐な唇にそっと咥える。フローリングの床に裸で座り込む彼は冴え冴えとしてまるで人間じゃない何かのようだった。肌が硬い大理石に変わっていないか確かめたくて、また背に指を伸ばそうとすると。彼はそれを遮るように上を向いてやんちゃに煙を吹き出した。それから無邪気に笑って俺に煙草を返す。帰ってきたその煙草は心なしか甘い気がする。  「永瀬なんかキャスティングするのやめて、お前がカムパネルラで、陸をジョバンニにしたらよかったな」  俺は彼の笑顔が見たくてそんなことを口走る。それは半分嘘で、半分本気だった。永瀬の演技は気にくわないし、言って響くような相手でもないけれど、彼がいなくては客席が埋まらないのもまた事実だった。  「それは・・・そうだったら嬉しいな。俺、陸の演技好きなんです」  翼はそう言って、一瞬鋭い笑みを浮かべた。嘘くさくない自然な表情だった。翼がこういう表情を浮かべるのは、陸といるときだけだ。人間なんてどこで育っても多少は曲がるものだと思うが、翼のそれは半端ではなかった。彼は自分の生い立ちのことについて頑なに話したがらないが、子役上がりの彼の親の姿を見た人間が業界の中に極端に少ないことが彼の深い孤独を物語っているように思う。  陸と翼は、翼のおかげで陸が舞台に上がれているように見えるが実は逆で、彼の危うげで硬質な美しさを折れないギリギリのところで支えているのは陸だった。  だからこそ、いつかくる別れが怖いのだろう。翼の表情はすぐに翳ってしまった。  「陸は雰囲気があるから、堂々としていたらいいのに、舞台の上だといつもおどおどしてるんだよな。あの丸まった背中で全部台無しだよ。1回がむしゃらにやってみたら変わってくるのか・・・」  翼は俺に背を向けたまま小さく頷いた。それからこちらを振り向いて華やかに笑う。また嘘くさい笑顔をしている。でもそれがたまらなく魅力的だった。彼は自分の小綺麗な服と硬いハンガーを踏みつけて、俺の隣に座った。  「そういうなら岡さん、何か書いてくださいよ。俺と陸が主演でやれるような舞台」  彼は甘えるようにそう言って、俺の痩せた肩甲骨のあたりに頭を預け、目を閉じた。俺は初めて翼がこの部屋に来た日のことを思い出す。昼間は子どもの顔をして後ろのほうで踊っていたのに、夜見せた顔は今とそんなに変わらない気がする。それからは何度も彼を自分の作品にキャスティングした。彼にやってほしい役を脚本に書き足したりもした。そのたび彼は想像以上の解釈でその役をやり遂げた。そして今、主演を張っている。たいしたものだ、と他人事のように思う。  俺は黙って彼の手を取り、自分の唇に触れさせた。女のように細くて白い指先に煙草の臭いがしみついて、彼の輪郭がまたぼやけているように感じる。俺はその指先を強く吸って、これ以上彼が滲まないように印をつけたつもりになっていた。翼はぼんやりと目を開けて、俺の太腿にただ手を触れていた。
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