冬支度

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冬支度

 紫禁城(しきんじょう)は寒風が吹きはじめている。宮女である蘭児(らんじ)は、お仕えしている陳貴人(ちんきじん)の住まいの冬支度を始めていた。 「どうしてこの炭しかもらえないの。もっと良い炭があるでしょう?」 「皇太后様が、後宮は節約するようにとおっしゃっているのだ」 「だからって、これでは冬は越せないわ」 「さあさあ、もう諦めて帰りなさい」  蘭児の必死の訴えにも関わらず、太監(たいかん)は軽くあしらうだけだった。蘭児に少し遅れてやってきた、瑾貴人の宮女に対しては、やってくるなり太監の方からすり寄っていく。後で新しい火鉢を住まいの宮まで届けるというのだから、そのあまりの態度の違いに蘭児は呆れてしまった。  陳貴人は、漢民族の出身であり、まだ幼くあどけなさが残る頃に後宮入りしてからずっと、皇帝の側室のひとりとして紫禁城の片隅でひっそりと暮らしている。他の妃嬪のようにきらびやかに飾り立てかしましく目立とうとすることもなく、控えめな性格であった為、宮廷の諍いからは一歩も二歩も引いたところで慎ましくしている。それだから、いつまでも下級の側室止まりである。最後に夜伽があったのはもう1年も前のことだ。だから、すっかり冷遇されてしまい、冬支度もままならない。  蘭児はしょんぼり肩を落として、永寿宮に帰ってきた。住まいには火の気がなく、寒々としている。装飾品もあまりなく、人の出入りも少ない。掃除はしっかりと隅から隅までピカピカに磨き上げているから、清潔感があるのがせめてもの救いか。  陳貴人は、葉を落とした梅の木のそばに、お供もなくひとりで座っていた。蘭児が駆け寄ると、やわらかい笑顔で出迎えてくれる。蘭児は太監たちの態度をぷんすこ怒りながら話して聞かせると、声に出して明るく笑うのであった。 「笑い事じゃないですよ」 「いやね、蘭児が太監に詰め寄る様子を想像したら、つい」 「どうしてそんなに呑気なのですか」  蘭児はため息をついた。 「私は、こうして蘭児たちと平穏に毎日過ごしていればそれで満足なのよ」 「またそんなことを言って。皇帝陛下のお世継ぎを産み育て上げるという立派なお役目があるじゃないですか」 「でも陛下がいらっしゃらないんだもの」 「そうですけど……」  蘭児はさらに大きなため息をついた。いつもこの調子なのだ。後宮の諍いに巻き込まれて命を落とすよりはずっと良いのかもしれないが、それにしても、大好きな小主が冷遇されているのはもどかしい。  風が強く吹き、陳貴人は咳をした。蘭児は慌てて陳貴人を部屋の中へ連れてく。肩を抱いた陳貴人の衣は毛羽立ちはじめていた。このままでは冬を越せるかどうか心配だ。体が弱いのだから、寝込んでしまっては大変である。いっそ、寝込んだことが皇帝陛下の耳に入ったらお見舞いに宮へ来てくれるだろうかと考えたが、そんな姑息な手段は陳貴人が嫌がるに違いなかった。 〇〇〇  宮の庭を箒で掃き掃除していると、蘭児なじみの太監である劉がやってきた。劉は長身で肩幅ががっしりとしており、並みの太監よりは体格がしっかりしているため、女だらけの後宮ではよく目立つ。それなのに気軽に訪れるものだから、蘭児はちょっぴり迷惑していた。 「貴人の侍女なのにこんなこともするのか」 「人手不足なんです」 「君も身の振り方をよく考えると良い。いつまでも陳貴人についていたら、将来がないぞ」  と、劉は軽口を叩く。蘭児は怒って、箒を掃く手を止めてじっと睨んだ。 「私は幼いころから陳貴人に仕えてきました。陳貴人が実家にいるころから共に育ってきた仲ですので、一番そばでお守りするのが生き甲斐なんです」  そう言い返された劉は、怒られながらも目を見て話してもらえたことに、すこし嬉しそうにしている。しかしそんなことに蘭児は全く気付かず、ぷりぷり怒っている。 「そんなに怒るなよ、機嫌を直しておくれ」 「陳貴人のことを悪く言うのは許せません」 「わかったわかった、お詫びになんでもするからさ」 「本当に何でもするんですか?」  と、蘭児は劉を見上げた。 「実は、お願いがあるんです」 「な、なんだ」  蘭児はにやりとした。くるくる表情が変わる娘だ。 「養心殿の太監である劉さんに、皇帝陛下がお庭を散歩するご予定を教えていただきたいのです」 「なんだそんなことか」  劉は拍子抜けした。それだったら造作もないことだ。しかし、そんなことを知りたいだなんて何をする気だろうと考えた。  劉は、この淋しいながらに清々しい宮を気に入っていた。他の宮では、ごてごてと飾り立てた妃嬪たちやいじわるな宮女がいつも諍っていて気が休まらない。特に瑾貴人は、満州八旗の出身で家柄が良いものだから、いつも偉そうにしている。重臣の娘ということで皇帝陛下も度々通っているものだから、さらに付け上がり、最近は侍女でも手が付けられないほどだという。現在は嬪の位に一つ欠員があるものだから、それを狙ってより一層に皇帝へ色目を使っているようだ。 「皇帝陛下も、この宮の良さに気付いてくれたら良いのだが……」  ふとこぼれた独り言は、ひんやりと湿った空気にかき消されるのであった。いまにも雨が降り出しそうな空模様である。 〇〇〇  雨が上がったばかりの宵、政務を終えた皇帝は、夕涼みに庭を散歩していた。劉に勧められるままにやって来たが、爽やかな風に吹かれて、心が晴々するようである。良い気分転換になりそうだった。  ふと、美しい琴の音色が聞こえてきた。竹林の方からだ。 「これは、誰が奏でているのだ?」  と、皇帝は劉に尋ねた。 「様子を見てまいりましょうか」 「いや、朕も行く。ついてまいれ」 「かしこまりました」  皇帝とお付きのものたち一行が音のする方へ向かうと、美しい女性が数人の侍女を従えて、琴を演奏している様子であった。暗い雨雲は過ぎ去り、厚い雲の隙間から月がゆっくりと現れる。まだ雨の雫が残る竹の葉に月光がキラキラと輝き、この静謐な景色が琴の調べをよりいっそう清らかなものにしていた。女性が奏でる琴音に合わせて、詩を吟じる者がいる。 竹院新晴夜   松窓未臥時 共琴為老伴   与月有秋期 玉軫臨風久   金波出霧遅 幽音待清景   唯是我心知  皇帝はうっとりと琴の音色と詩情を味わった。竹林の間から漏れる月光が女性の真っ白な手元を照らし、神々しい匂いを放っている。皇帝は、詩の情景そのものであるこの美しい女性のとりこになってしまった。 「かように美しい者がいたのか。名前は……」  と、皇帝が名前を思い出せずにいると、劉は素早く、 「永寿宮の陳貴人です」  と答えた。 「そうか。あれほどまでに神秘的な女性だったとは。どれ、声をかけてみよう」  お付きのものたちが陳貴人たちのもとへ行くと、一行は驚いたようにざわめいたが、ひとりの宮女が一言いうとすぐに静まり、皇帝たちを出迎えた。 「皇帝陛下にお目にかかります」  陳貴人は、深々とお辞儀した。 「面を上げよ」  皇帝は陳貴人を座らせると、興味深そうに尋ねた。 「そなたは随分と琴の腕が立つのだな。これほどの名手にはなかなか会えないぞ」 「恐れ入ります」 「それにしても、なぜ、かように淋しげな音色なのだ?」  陳貴人は恥ずかしそうに俯いてしまった。すると、侍女の蘭児が「恐れながら申し上げます」と口をはさんだ。 「陳貴人は、美しい月夜をひとり愛でることを淋しく思っていらっしゃるのです。せっかくの琴の腕も、聞く人がいなければ報われません」  皇帝はそうなのか、と驚いた。 「今宵は朕が共に愛でることにしよう。そうすれば、その美しさをさらに満喫することができるな?」  陳貴人は照れて顔を赤くしながら頷いた。皇帝はそのいじらしい姿を見て思わず笑みがこぼれた。 「そういえば陳貴人は、もう後宮に入って長いのであるな」 「はい、おっしゃる通りです」  と、劉が答えた。 「その真面目で慎ましい振る舞いは、後宮の他の妃嬪たちの模範となるだろう。よって嬪の位を授ける。また、麗しいその姿から、麗嬪(れいひん)と名乗るがよい」 「ありがとうございます」  陳貴人改め麗嬪は恐縮して、深々とお辞儀をした。 「より一層、役目に励むように」  皇帝は上機嫌でそう言うと、お付きのものに、麗嬪へ褒美の品を与える指示と、今夜は麗嬪の宮で過ごすことを告げた。劉と蘭児はこっそり目を合わせて微笑んだ。 〇〇〇  麗嬪たち一行が、今夜の準備をするために宮に帰った後、皇帝は劉の耳元でこっそり言った。 「そなたも、いつまでも宦官の真似などして遊んでいないで、いい加減に妻を迎えたらどうだ」 「皇帝陛下、いや兄上。そうはいっても私はまだ若すぎますから」  劉--本当は第十九皇子は、おちゃらけて言った。 「心に決めた女子がいたら、すぐ言うのだぞ。母上も心待ちにしているのだからな」 「そうですね。お話しできるようになったら、いずれ」  劉は、蘭児の怒った顔を思い出して、ふふっと笑った。
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