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厨房に入り、僕が用意したのは、父の代から受け継がれた魚介のスープだ。大きく切った魚の切り身をトマトや芋と煮込む家庭料理で、この街ではどこの家庭でも作っている。
父はどの家よりも美味しく作っていたが、僕のものはどこの家庭にも劣っているらしい。レシピも手順も父から教わった通りに作っているのに、どうしてなのかは未だにわからない。
だがこの街を初めて訪れたのであろう旅人に、この店で最後に出すスープと言われたら、これしかない。
毎日最低でもこれだけは仕込みをして客を待っている。
僕はスープを火にかけ、温めて味を確認して、皿に盛った。これが、この店最後の料理だ。
ゆっくりゆっくりと旅人の元に運び、慎重にテーブルに置いた。
旅人は、そんな僕の想いを何かしら感じ取ったのか、神妙に祈りを捧げ、そしてスプーンを手にした。
湯気の立ち上るスープをそっと掬い、冷ましもせずに、口に入れた。
すると次の瞬間、旅人は急に立ち上がった。驚いたのか、激高したのか、それはわからないが、立ったまま小刻みに震え、座り直す気配がない。
旅人の背後から、おそるおそるその様子を窺い見ていると、声が聞こえた。
「店主」
「は、はい!」
まるで僕の姿が背中越しに見えているようだった。小さく手招きされて、逆らえるはずもない。僕はそろりと近づいた。相変わらず顔は見えないが、怒っているようには見えなかった。
「店主、この料理だが……」
「はい、何でしょう?」
もしかしたら、不味いと言ってこの場で殺されてしまうかもしれない。最後の最後がそれではあんまりだが……致し方ないかもしれない。
口を引き結んで裁可の瞬間を待つと、旅人のフードの隙間から、僅かに瞳が覗き見えた。夜の闇の中に浮かぶ灯のように、金色に煌々と輝いている。その瞳が、ふいに笑ったように見えた。
「美味い」
「申し訳……は?」
「美味いと言った。これほどまでに美味い料理を、余は初めて口にしたぞ」
旅人の声は、浮かれていた。見えずとも、顔が綻んでいるだろうことが分かる。
僕はと言うと、茫然としていた。”美味い”などという言葉を、初めてかけてもらえた。
喜ぶことを通り越して、どういう感情を持てばいいのかすらわからない。だけど今、胸の内で湧き上がっている熱く、軽やかな、そして甘い痺れるような感情は、喜び以外に呼びようがない。
「ありがとう、ございます……!」
僕は、深く深く頭を下げた。最後の最後に、この言葉をかけてくれたお客様に、感謝の言葉もなかった。
「うむ、こちらこそ、うまい料理の礼をせねばな。そうだな……店主、この店いっぱいの金貨と、余の元で一生料理人として働くこと……どちらを望む?」
「……はい?」
「見た所、だいぶ寂れているようだ。もう長く続きそうにないと見受けられた。それならば、生涯困らぬほどの金と、生涯困らぬ職と、どちらがいい?」
言葉に詰まった。正直なところ、どちらも嬉しい。だがどちらも僕なんかには過ぎた褒美だ。とても選べるものではない。
黙ったままでいる僕を、旅人は立ち上がって見下ろした。どうしてか、入ってきた時よりも大きく、尊大に……いや偉大に見える。
その時、風が吹き、顔を覆い隠すフードがふわりと落ちた。
真っ暗闇だった中から姿を現した旅人の顔は、年の頃は中年だが、精悍で逞しい男性のものだった。当然、人と同じ目と鼻と口がついていた。そして額には角が、口元には牙が、そして瞳は獰猛な獣を思わせる金に輝いて、僕をぎろりと睨みつけていた。
「どうした。余が恐ろしいか」
大きな口が、歪んだ三日月形を象った。
角に牙に金の瞳……この特徴を耳にしたことがある。人間ではない、獣ではない、魔物でもない。これは、魔物と魔族たちを統べるという、魔王の姿だ――!
「そうか。余のことを知っていたか。ならば話は早い」
「ひ……た、助けて……!」
「わかった。これだけ美味い料理を作るのだ。貴様だけは助けてやるとも。そなたへの褒美として、わが城専属の料理人にしてやろう」
そう高らかに叫んだ次の瞬間、僕の目の前は、真っ暗になっていた。
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