彩る筆のその先にあるもの

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彩る筆のその先にあるもの

 秋風が吹くこの季節になると思い出す事がある。それは一枚の絵にまつわるお話。  私の家は古き良き昭和の家庭だったように思う。  小さい頃は男児たるものと言う理由であれこれと習い事をさせられ大変だったのを覚えている。残念な事に運動に関してはどれも才能が開花する事は無かったけれど、一つだけ続けられた事がある。  絵だ。  情緒を育む為と始めさせられたそれの魅力に取り憑かれのめり込んでいった。  母は何かに熱中できる事を喜んでくれていたが父は違った。 「こんなもの将来何になるんだ」 「絵に何ができる」  描いた絵を見せる度に投げ掛けられる言葉に何度となく心を折られ無かったかと言えば嘘になる。  そんな中授業で描いたポスターが市のコンクールで入賞した知らせが届いた。環境保全に関するポスターで、近所の山河をテーマに描いたものだ。  知らせを聞いた母は大層喜びその日の夕飯のおかずが一つ増えた。  しかし、その話が食卓に登っても父は顔色ひとつ変えず「そうか」と一言こぼしただけだった。  思えば父は表情が乏しい人だった。まるで機械の様にただ冷たく見つめる視線ばかりが記憶に残っている。  そんな中母が明るい声で折角だから見に行きましょうと言い出した時ひやりとした。父が観に来るわけない。機嫌を損ねないで欲しいと。  しかしそんな予想とは裏腹にあれよあれよと予定は組まれ気付けば当日を迎えていた。  絵は役所のロビーに展示されていた。  役所へと向かう車はまるで死刑宣告のカウントダウンを告げているようで、何を言われるのかと緊張でじっとつま先を眺めていた。  すると母が浮かれた様子で車窓を流れる紅葉を愛でた。 「綺麗な紅葉ね、どの季節の山も好きだけれど秋の姿が一等好きよ」  子供のようにはしゃぐ母を横目に、この光景をポスターに描いた事を思い出しそれが更に心を重たくさせた。  役所に着きロビーへ向かう。足取りはどんどんと遅くなる。  上位の入賞作は額に入れられロビー正面に飾られているのに対しその他の入賞作品は脇の壁一面に展示されていた。私の作品もその中の一つだ。沢山ある作品の中から息子の作品を楽しげに探す母がこれ程まで恨めしいと思ったのは初めてだった。 「あった!」  母の指の先には確かに私の描いたポスターがあった。紅葉の色に納得がいかずギリギリまで粘って筆を走らせていた私の絵が。  賞を貰った程度には上手く描けているのだと思う。しかしそれが父にどう映るかはまた別の話だ。  なんと言われるのだろう。やはり絵にはなんの意味もないと言うのだろうか。  鬱々とした思考に囚われ始めたその時父の声が届いた。 「上手いもんじゃないか」  ハッとして顔を上げると、下手くそな笑顔をしている父の姿がそこにあった。  あの父が、絵が嫌いな父が、感情を表す事が下手な父が、私の絵を見て上手いと言ったのだ。  身体中を喜びが駆け巡りまるで雷に打たれたような衝撃が襲ってきた。  言葉は多く無かったお前の好きなあの山だと告げ母が嬉しそうに頷いている。幸福とはこんな色をしていたのだと、今すぐ筆を取りたいと激しい衝動に駆られる気持ちと、もう少しこの光景を眺めていたい気持ちが鬩ぎ合いぐっと唇を噛み締めた。  変な顔をしてと笑う母といつもの表情に戻った父の姿に私は決意を固める。将来は必ず絵に携わる仕事に就こうと。  帰りに見た紅葉した山は燃えるような赤で私を応援しているようだった。  今、私は小学校で美術の教師をしている。  芸大に行く事に反対されもしたが、それがより一層自分の将来に対する思いを再確認させる事になった。  あの時の絵は今でも大事に押入れに仕舞われている。迷った時に見てはあの日の喜ぶ母の姿を、父の顔を思い出す為に。  絵に何か意味はあるのか、その問いに答えはまだ見出せていない。  それでも私は描き続けるのだろう。この筆先が白紙を彩る未来を信じて。
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