竜宮への帰還

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 登校時間の直前に、暴風警報の発令がテレビの臨時ニュースから流れた。今日は休校だ。明日は土曜日。3連休だ!  美奈子は今日の休校を、ひたすらだらだら過ごす予定に決めて、欠伸した。  テレビ画面からベランダに視線を移し、厚めのガラス戸の向こうを眺める。  あぐらをかいて座っていると、ガラス戸の向こうの風景を見上げる形になる。集合住宅の7階にあるこの部屋からの眺めは、普段は市街地とその向こうに広がる海と空だ。でも今は、このガラス戸に、突風に煽られた水の塊が、絶えずぶつかり続けている。その水の塊がまるでガラス戸の向こうの空中が、水中であるかのような非現実的な風景を見せてくれる。  玄関で、小学生の弟が、ランドセルしょって水泳バッグを抱えて泣き出している。今日はプールの授業があったらしい。  母親が玄関を開けさせまいと、半分笑って、やや怒ってなだめている。 あと数時間は絶対に玄関のドアは開けられない。あの嵐が我が家に入り込んだら……見つかる! 「?」  美奈子は自分が鳥肌を立てていることに気が付いた。今、何か不自然なこと思っていたような、感じていたような、あいまいな不安を覚えた。  美奈子はベランダのガラス戸から目を離し、自分の薄い肩を両手で抱えてさすりながら立ち上がった。そろそろ笑えなくなっている母親の怒鳴り声と、弟の「学校行く~」のむせび泣きとの対決を仲裁しようと、玄関に向かった。  昼過ぎには雨が止んで、風が弱まり、青空が広がり始めた。ちょうど台風の目に入ったようだ。外を見ると、ちらほらと人通りが増え始めた。テレビの台風情報は、不用意に外出しないよう呼びかけているが、これは少しでも出ないと損だ。 「あたし、えりちゃんとちょっと出るね」  美奈子は同じアパートの同級生にメールして、エントランスで待ち合わせることにした。母は少し心配そうに声をかける。 「気をつけてよ。目に入っただけなんだから、すぐに戻るのよ」 「え~俺も行く。プール見に行く」 「あんたはだめよ! お風呂で我慢しなさい」  弟の願いは母親に即却下され、プールの代わりにバスタブに入ることになったらしい。美奈子はクスクス笑いながら草履を履いた。  玄関を開けると、表の通路は、濡れたコンクリが日差しに照らされ、ギラギラと乱反射してまぶしいくらいだ。ただし、空気はじっとりと湿気を帯びている。嵐の中休みだ。  団地のエントランスを出ると、潮の香りがつんと鼻をついた。台風で海水が吹き上げられたようだ。 「美奈子、こっち!」  先に降りていた友達の絵里が、歩道の植え込みをのぞき込んでいた。 「何? なんかあるの?」 「見てこれ、魚が飛んできてるよ。すごくない?」  近づいた美奈子は、友人の指さす先に体長20cmほどの青光りした魚が落ちているのを見た。驚いたことに魚は生きていて、びたびたと音を立てて跳ねている。 「ほら、あっちにも。生きてるし、台風で海から巻き上げられたのかな」  あたりを見回すと、なんと同じような魚が数匹道路に転がっていた。 しかも、騒がしい……。 『おお、太郎じゃ。見つけたぞ。我の手柄じゃ』 『なにを、一番乗りは我じゃ! 太郎、覚悟せよ!』 『恐れをなしたか、裏切り者が』  美奈子は軽くめまいを覚えた。まるで魚たちが喋っているような錯覚を……。いや、実際喋っている。 「えりちゃん。なんか、あたし耳が変。変な音が聞こえる」 「あ、ホントだ。これ風の音だよ。吹き返し始めてるよ」  台風の目が抜け始めた証拠に、南の空が曇り始めて、ピューピューと甲高い風音が遠くから響き始めていた。 『さあ、かかってこい! この臆病者め』  びちびちと跳ねながらわめき続ける魚を、美奈子はつま先で、ちょんと蹴ってみた。 『な、何をする! おのれ、無念! 無念じゃ~』  相当ビビったか、蹴られた魚は甲高い声で叫んだ。 「どうする? この魚達。ほっといたら死ぬんじゃない?」  悪態をつく魚たちを、絵里は心配そうに眺めている。 「どうするって……」  美奈子は戸惑ってあたりを見回した。通りの向こうに橋がかかっている。近くを流れる川の河口が見えた。 「あっちの川に放してあげようか? すぐ海に出るし」  美奈子の視線を追って、絵里が提案した。すると 「いかん! 絶対にいかんぞ」 鋭い制止の声が背後から飛んできた。美奈子はギョッとして振り向いた。  風呂場のバスタブには先客がいた。弟がスクール水着で、バスタブの中に突っ立っていたのだ。ちゃんと水泳帽子にゴーグルも着用中だ。 「おれ、自主トレしてんだけど!」  血相変えて飛び込んできた姉に、言い返したが、姉が抱えてるものを見ると目を丸くした 「すげぇ、カメだ! 姉ちゃんすげぇぞ」 「亮太、ちょっとどいて、これ、水に浸けるから。あ、母さんに言っちゃだめよ。言うこと聞いたらカメに触っていいからね」  亮太は素直にバスタブを明け渡し、姉がカメを風呂に入れるのを目を丸くして見つめていた。 「や、弟御は沐浴中であったか。邪魔したな。お、これは温もるな、太郎にしては気が利いておる」 「え、お湯? 大丈夫? 熱くない?」 「いやいや、西海と違ってここの海は冷たい。すっかり冷えてしまったよ。これは良い心地だ」  カメはバスタブのへりに前足を載せて、のぞき込む美奈子の鼻先ににゅっと首を伸ばして微笑んだ。 「へえ、こっちの海が冷たいんだ。良かったね、お風呂沸いてて」 「うむ、儂は全く運がいい」  カメはバスタブの中をたぷたぷと漂い始め、ほうっとため息をついた。 亮太は、カメに話しかける姉を訝しげに眺めていた。 「姉ちゃん……。 このカメって……シャンプーとかする?」 「あ、するわけないでしょ。あんた、まだ頭洗ってないの? もう、さっさとしなさいよ! ほら、水着脱いで」  美奈子は、亮太のプール装備一式をはぎ取って、シャワーを頭からかけ、弟が髪を洗い始めたのを確認して、浴室から出た。  残された亮太は、頭をわさわさと洗いながら、チラチラとバスタブに視線をやらずにはいられない。カメはお湯に浮かんでゆらゆらと首を回している。 「なあ、シャンプーする?」 「・・・・・・」  日が暮れて、風雨は幾分和らいできた気配がした。夜中には台風も過ぎ去っているだろう。 「四角?」  美奈子は机に頬杖ついて呟いた 「刺客じゃ。なにうつけておる」  玄児と名乗ったカメは、美奈子のスマホに映っている、あの魚達の写メに向かって首を伸ばした。  絵里が撮って送ってきたその写メには、歩道に転がっている魚達に交じって、ひっくり返ったカメが写っていた。 《超常現象! スクープ映像だぞ》とタイトルがついたその画像は、アングルが地面に近すぎて、魚とカメ以外の意味が伝わらない。 「あの魚類が刺客だとして、そもそもどうやって、あたしを、その……暗殺? 出来るのかな?」  美奈子の疑問に玄児はふんと鼻を鳴らした 「出来るわけないだろう。あんな小魚に」 「ああ、だよねー」  美奈子はほっと胸を撫で下ろした。かなり不安だったのだ。 「そもそも、お主に勝てるものなど東西の海におらんよ。あの小魚ども、汚名返上のために決死の覚悟で上陸したのさ。今頃は全員のたれ死んどるよ」 玄児がけろりとした口調で言うのに、美奈子は顔を顰めた。 「決死って、なんでそこまでして」 「儂もそれが知りたい。何より、何故お主が転生したのか訳が知りたい」 「だから~なんのことかさっぱりわからないし。太郎って誰? 転生って何? どうして魚とカメが喋るの~」  頭を抱えた美奈子を、カメは前足で励ますようにパタパタはたいた。 「よしよし、儂が懇切丁寧に教えてやるからな。まず、太郎はお主の名じゃ。浦島太郎という竜宮最強の武将じゃ。転生とは、お主が何故か人間界に生まれ変わっとることじゃ。そして、あの魚は西海竜王の刺客だ。お主を殺して、再度竜宮に転生させようとしている。 魚と儂が喋るのはお主にしか聞こえんよ。我らは同じ竜族じゃからな」 「うらしまたろう? 鬼退治した人?」 「それは桃太郎じゃろ。混乱しとるな」 「あたしを殺す?」 「人間として死んでも、すぐに竜宮に戻るよ。浦島太郎としてな」 「もしかして、海がやばいの?」  美奈子は、昼に絵里と一緒にいた時の、玄児の言葉を思い出した。  「いかん! 絶対にいかんぞ」  鋭い制止の声が背後からして、美奈子は振り向いた。が……誰もいない。いやな予感がして、視線を下に向けると、居た。  大きなカメがいつの間にか二人の足元にいたのだ。 「ぎゃー! か、カメ!」  絵里も気づいて、叫びながら後ずさりした。美奈子は固まって動けない。 動物のことあまり知らなくても、明らかに普通よりでかいカメだ。手足がヒレになっている。おそらくウミガメだ。しかもひっくりかえっている。そして……喋っている。 「おい、海には近づくな。お主は生身だ。死ぬぞ」 「……わかった」  思わず返事した美奈子に、絵里が「なに、何がわかったの~!」と言いながらこわごわとスマホをかざして周囲の写真を撮り始めた。 「ほら、さっさと儂を助けろ。これじゃ身動きとれんぞ」  ひっくり返って不自由しているのか、手びれをひらつかせて美奈子に催促した。 「えりちゃん。このカメはうちに連れて帰るよ」 「うそ、これ飼うの? 絶対ウミガメだよ。無理だよ」  美奈子はリュックサックぐらいの大きさのカメを持ち上げて抱え上げた。 「飼わないよ。台風過ぎたら海に放すよ」 「そっかー。魚はどうする?」 「絵里ちゃんちに持って帰ったら? から揚げにしてもらいなよ」 『ひ~~~っつ!!』  一斉に地面から悲鳴が上がったが、絵里は「嫌だ~食べないよ」と顔を顰めた。  パラつき始めた雨が、急激に横殴りの土砂降りに変わり、耳をつんざく突風が2人の体を押し始めた。本格的に台風の吹き返しが始まりそうだ。 「やばい、帰ろう」  カメを抱えて美奈子は団地のエントランスに駆け戻った 「あ~コンビニ行く暇なかった~」  絵里の残念そうなつぶやきは、激しい雨が歩道に叩き付ける轟音にかき消された。振り向いた美奈子は、さっきまでいた歩道が雨水で覆われて、あの魚達が流されながらも、ちゃっかりと泳ぎ去っていくのを見た。  絵里と別れて自宅の玄関までの廊下を歩きながら、カメが「玄児(げんじ)」という名だと教えてもらった。美奈子も簡潔に自己紹介した。 「あたしは宮里美奈子。高校2年生だよ。家にはお母さんと弟がいるし、団地では動物飼うの禁止されてるし、あんたのことどうしようかな……」 「儂の心配は無用じゃ。ああ、どうせお主は何も覚えてないんじゃろ。面倒くさい。さっさと屋敷に入れてくれ。体が冷えてきた」 「やしき…。お母さんに見つかるとまずいからちょっとじっとして」  ヒレをぱたつかせるのをやめて、おとなしくなった玄児を、美奈子は母に見つからないように抱きかかえながら風呂場に向かった。  すっかり温まった玄児と、口止めと引き換えにウミガメに触るという体験をした亮太が風呂から出てきた。  何も知らない母が、聞き分け良くなった亮太に機嫌よく夕食を準備している。美奈子はダイエットを理由に、食パンだけ持って部屋に引っ込んだ。  机にでんと乗っかっている玄児から、話を聞いても信じられない。なにより、カメが喋っていること自体信じられない。  自分の前世が「浦島太郎」という、昔話しの主人公と同じ名前で、しかも命を狙われているのだ。 「よいか、この嵐は西の海の王がお主を探すために起こしたものじゃ。お主は愚かにも気配を消すこともせずに、嵐のど真ん中にご登場だ。居場所は知られたが、陸におる限り簡単にはやられんじゃろ。ただし、後で竜宮には連れていくぞ。約束は守るからな」  それを聞いた美奈子は、カメの甲羅を両手でつかんで、机から持ち上げると、床にばっとひっくり返した。いきなりの仕業に玄児は仰天し、ひっくりかえったままバタバタとヒレを振る。 「な、何をする!」  美奈子は仁王立ちになって、慌てふためく玄児を見下ろした 「連れていくって何よ。あたしに何する気よ」 今聞いた玄児の話の通りなら、自分の死後に転生予定らしい。となるとこのカメの狙いも自分の命かと思われた。 「勘違いするな。竜宮に連れていくのはお主との約束じゃ。転生がばれたらそうしろとお主が言うたんじゃ!」 「死んでから行くんでしょ。嫌よ」 「ええい、このわからずやめ。誰が死ねといった。お主なんぞ、あと1万年くらい人間でいておけ! その方が竜宮は平和だ!」  どうやら命を取られることはなさそうだ。美奈子は玄児を持ち上げて、机に戻した。 「全く、童の姿でも性格は変わらんな。礼儀を知らん。ああ、腹が立つ」 「ごめんね。ちゃんと説明して」 「ならばちゃんと聞け。お主の前世は人間ではない。西海の竜の王が治める世界の住人だ。 この世界の人間とは、寿命も神通力も全く異なる。お主は、「浦島」という仙人の修行場において五千年の修行で、最強の神通力を修め「太郎」の称号を得た男だ。現在は西海竜王の配下で、将軍職についている」  それを聞いた美奈子は、はぁ~とため息をついた。太郎と呼ばれた時からもしやと思っていたが、やはり前世は「男」だったらしい。しかも5千歳の仙人……。じじいだ。なんのロマンも無い。  美奈子のがっかりなど意に介さず、玄児の説明は続く。 「こないだ、まあ、人間界で15年前かの。竜の王族の住む竜宮でスキャンダルがあったんじゃよ。そしてお主が姿をくらました。西海竜王は激怒して追っ手を放った。人間に転生したことが分かった。お主は儂に転生がばれた時、竜宮に案内させろと約束させていた。人間のままで竜宮に連れていけるのは儂だけじゃ。どうじゃ、判ったか」  玄児の恐ろしく簡潔すぎる説明に、美奈子は目を眇めた。しかも急に俗っぽい言葉が混じりだしている。 「ねえ、スキャンダルって何?」 「お主、人間でいえば乙女じゃろ。聞かん方がよいぞ」  玄児がふいっと首をそむけて視線を逸らす。美奈子は眼を剥いた。まさか5千歳以上のじじいが、スキャンダル? 「身から出た錆じゃ。しかし、お主、何らかの策は持っているのであろう。で、いつ竜宮に行く?」 「え? いつって? あ~学校休みの日がいいかなって、ちょっと! ちゃんと帰ってこれるよね」  美奈子は今更ながら、昔話の「浦島太郎」の結末を思い出した。竜宮城で数日遊んで、人間界に戻ると何十年の時が過ぎていて、玉手箱を開けると白髪のおじいさんになっちゃったというやつだ。  あんな目にあわされたら適わない。竜宮在住のじじいのスキャンダルより、今の自分の人生が大事だ。そこで、机にどてっと乗っかっている玄児に向かって、おもむろに告げた。 「90年後に行こうかな」  玄児の黒光りする眼球が、美奈子の視線とぶつかった。 「往生際が悪いな」  玄児の首がにゅ~っと伸びた。甲羅が急に明るく光りだした。べっ甲色の光が徐々に明るさを増してくる。美奈子は警戒してじりじりと後ずさった。 「嫌よ! 早くても80年後!」 「いい加減にしろ! あ~もう出発するぞ」 「!」  甲羅の光に包まれて、30cm四方の何やら四角い物体が玄児の背に浮かび上がる。光が徐々に薄れていき、甲羅のあった場所にはいつの間にか黒塗りの重箱のような箱が現れた。  美奈子は息を飲んで、その箱を凝視していると、箱の上に白くほっそりとした手が触れてきた。桜色に輝く爪に、透き通るような肌の白さだ。美奈子は視線を美しい手の主に向けた。大柄な女がそこに居た。若く、美しい、眼光の鋭い女だ。切れ長の瞳は黄金色のまつ毛に縁どられている。薄茶色の虹彩と漆黒の瞳孔が美奈子をひたと見つめていた。細く高い鼻梁の下の紅色の唇は、斜めに吊り上がり、尊大とも見える笑みを浮かべている。  女のほっそりとした首から肩の下まで伸びた茶色の頭髪は、輝く艶を放ち、波のようなうねりを鎖骨のあたりで描いている。そこから膨らむ豊満な胸は薄桃色の薄絹でふんわりと覆われているが、少しでも身動きしたら盛り上がった乳房が零れ出そうな風情だ。腰も同様の薄絹を纏っており、細すぎる腰と張り出した太腿が起伏のある曲線を描いている。 「あ、玄児……」  美奈子は女を指さして、呟いた。 「やっと儂を思い出したか。有り難い。ほら魂手箱(たまてばこ)だ。確かに渡したぞ」  黒い箱が美奈子に手渡された。両手で受け取ると、不思議なことに煙のように箱は消えてしまった。美奈子は空になった両手を驚いて見つめた。 「消えた。何これ……玉手箱?」  玄児は紅色の優美な唇の両端を吊り上げてにやりとした 「魂手箱だ。魂が込められた箱だよ。お主の仙術のひとつだ。人間界に転生し、生涯を終えるまでは本来の魂を保管しておくのだ。ここに人間のままで来るときには持っておく必要がある。帰る時には、また儂が預かろう」  玄児に「ここ」と告げられて、はっとしてあたりを見回すと、自分の部屋にいたはずが、すでに見知らぬ部屋に居た。  広々としたその部屋は、まるで外国のお城の大広間のような内装だ。  床には山吹色の絨毯が敷かれており、高い天井一面に色とりどりの細かい螺鈿文様が施されている。その模様の一つ一つが明かりを放っており、部屋全体が不思議な光彩で満たされていた。何より現実離れしていたのは大理石を思わせる素材で覆われた壁に、いくつもあつらえられた大窓だ。その窓から見える景色はすべて……。 「なにここ、水族館?」  美奈子は窓の向こうに広がる海中の光景に息を飲んだ。色鮮やかなサンゴ礁が広がる海底に、鮮やかな色彩の魚が漂っている。ひらひらと優雅に漂う魚もいれば、その中を縫うように素早く横切る大型の魚達が銀鱗を煌めかせていた。まるで非常に凝った作りの水族館か、窓にCGを映し出しているとしか思えない鮮やかさだ。  すると、突然窓の向こうを巨大な生物が横切った。その長い巨体は巨大な金襴の帯のようだ。 「え? 竜?」  驚いた美奈子の眼前で、その伝説の生物とされている竜が、部屋の外を周回するように回り始めた。体を覆う無数の鱗は金銀織り交ざったきらめく光を放ち、この部屋の中まで光が差してくる。  やがてその竜は窓のない壁側に回り姿が見えなくなった。そして、その壁にしつらえられた重厚な石造りの扉が開いたのだ。 「ぎゃーっ」  悲鳴を上げた美奈子の目の前に現れたのは、流れ込む海水でも、先刻の巨大な竜でもなく、人だった。 「悲鳴でお出迎えとは……なんと薄情な」  扉を開けて入ってきたのは、長身の若者だ。古代日本の弥生時代を思わせる、薄緑色の衣服を纏っている。ひざ下あたりの長さの衣の下から延びるほっそりとした足は、光沢のある漆黒の長靴で覆われていた。腰は金銀織り交ぜた輝きを放つ帯が締められており、先ほどの竜の鱗の輝きとよく似ている。額で切りそろえられた前髪の下には、やや吊り上がった、くっきりとした二重瞼の瞳が美奈子をひたと見据えていた。その瞳の色は深緑色で、漆黒の長いまつ毛が濡れたような煌めきを放っている。白すぎる頬は白磁のように滑らかだった。どう見ても男性なのだろうが、そのたたずまいは古風な美人画に描かれる佳人のようだった。しかし、美人画とは決定的に異なる点がある。それは彼が腰に帯びた巨大な刀剣だ。淡く温かい色の衣には不似合いすぎる、黒光りする柄と鞘、赤銅色の鍔はまるで冷気を放っているかのように青白い霞をうっすらと纏っていた。  「しょうがないだろう、太郎はお前のことなどすっかり忘れているからな」  美奈子の傍らにいる玄児が、楽しそうに言い放った。  竜の化身かと思われるその男は、玄児の言葉にムッとしたように眉を顰めた。そうすると、優美な唇が歪み、無機質な深緑色の瞳に感情が垣間見える。 「あっ 思い出したかも!」  美奈子が言うと、彼は明らかに喜色を浮かべて美奈子を見た。 「小燕でしょ。なんかすぐ名前が浮かんだ」 美奈子が得意げに告げると、「小燕」は苦虫をかみつぶしたような表情になり、かたや玄児は大爆笑した。 「アハハ、ハハッ、当たってるとも。彼は確かに小燕だ」 「……師匠よ、それは私の幼名です。竜宮に入ってからはそう呼ばないと約束したではないですか」 「太郎にとってお前はいつまでも子供だしな」  ニヤニヤしながら玄児が口を挟むのを、じろりと睨んで、彼は美奈子の前に姿勢を正し、優雅な所作で片膝をついた。 「私はあなたの直属の部下、西方副将軍、黒杉朱衛です。ちなみにあなたの失踪後は、全ての任務を代行しております」 「え、失踪?」 「そちらの世界では職場放棄ともいいますね」  美奈子が目を白黒させている一方で、玄児は身をよじってゲラゲラ笑い転げている。薄絹から豊満な乳房が零れだしそうなほどだ。  どうやら怒っているらしい黒杉と、明らかに面白がっている玄児に挟まれて、美奈子が途方に暮れていると、黒杉がすっと立ち上がって美奈子の肩に手を置いた。冷たすぎる面差しに、ゆっくりと温かい微笑みが浮かんできていた。 「すいません。困らせましたね。会えて嬉しかったから、少しからかってみただけです。あそこの性悪亀ばばぁは笑わせておきましょう。私の苦労が面白くってしょうがないんですよ」  亀ばばぁと言われた玄児は、別に気にしてない様子でまだにやにや笑い続けている。 「そうなの? なんか苦労かけてるんだね。ありがとう朱衛」  美奈子が首をかしげて、はすかいに見上げながら黒杉に礼を言った。すると彼は「うっ」と息を飲んで、白磁のような頬をみるみる赤く染めていく。  玄児のぶふっと噴き出す音と同時に、先刻に黒杉が入ってきた扉から再度来訪者が入室してきた。多数のいかつい男たちだ。しかも皆大振りの刀を手に構えている。さすがに美奈子は恐怖で凍り付いた。 「浦島太郎! 自ら下ってくるとはさすがに観念したな」 「観念したな!」  口々に叫ぶ男どもの声に、美奈子は「あれ?」と思った。聞き覚えがある。 「え~さっきの魚?」  すでに玄児と黒杉が美奈子の盾になるように立ちはだかっており、二人の隙間から美奈子が男たちを指さして言った。台風の目に入った時に団地の前の歩道に落ちていた喋る魚だった。 「浦島太郎め、貴様、我らをから揚げにしようとたくらんだであろう。なんと残虐な」 「やはり浦島の野蛮な部族じゃ」 「血も涙もない恐ろしい男じゃ~」 「我ら命を懸けて、貴様に罪を償わせようぞ」  男たちは口々に恨み言をわめきはじめたが、うるさすぎて何言ってるのかよくわからない。 「ねえ、あんた達あれからどうしたの? ちゃんと海に戻れたの?」  玄児のくびれた腰と黒杉の腰の刀剣の隙間から、美奈子が問いかけた。そういえば黒杉は抜刀した男たちに迫られながらも、腰の刀は抜いておらず、玄児に至っては手ぶらだ。二人の余裕に美奈子もなんだか落ち着いた。 「海にだと! お前を引きずり込めずにおめおめと戻ったとも。だがここであったが百年目。覚悟せよ」  男たちはよく喋るが、なかなか近づいては来ない。 「……あたし、どうすべき?」 「彼らに従いましょう。この男たちは王妃の親衛隊です。あなたは西海竜王に対して謀反の疑いがかけられています」  黒杉が告げた。それを聞いた美奈子の表情が不安で曇り、黒杉の衣の端をキュッと握りしめた。彼は振り向いて微笑みかけながら言った。 「あなたは謀反など起こしませんよ。しかし、我らにも謎だらけの状況なのです。まずはあちらの懐に入って真相を解明したい」 「あたし、拷問とかされちゃうのかな?」 「まさか。彼らの態度次第では、ここで全員から揚げにしてしまいましょう」  黒杉が刀の柄に手をかけると、途端に男たちの喋り声がぴたりと止んだ。玄児がため息をつき、男たちに向かって言った 「ほら、お前たち、さっさと刀をしまえ。そして、もう喋るな。本当に煩い」  親衛隊は全員静かにその言葉に従った。 「では、どうぞこちらへ」  親衛隊の一人が、先ほどの騒ぎなどなかったかのような、けろりとした表情で美奈子達を案内し始めた。  黒杉は刀の柄から手を離し、美奈子の後ろに下がった。玄児は両肩をすくめて見せると、美奈子の前を歩き始めた。美奈子は二人に前後を守られながら、まだ状況は危険を帯びているらしいと、空気の重苦しさを感じていた。  部屋の扉を抜けると、そこは見た目通りの海底だった。 「あたし、だめでしょ」  美奈子は溺死の危険性を訴えたつもりだったが、先に歩く玄児はその体から黄金色の光を発するとともに、カメに変化していた。ただし、美奈子の部屋に連れ帰った時とは桁違いの大きさだ。セダン車ほどの巨大なウミガメだ。  もしやと思って振り返ると、背後の美青年は銀鱗の巨大な竜に変化していた。美奈子は特撮映画の○○○ギドラのアップを間近に見たくらいには驚いたが、何故か恐怖は覚えない。美奈子の足元に頭を降ろした彼の鼻先を、冷静に踏んづけて乗り上げ、ひょいと頭部に跨った。  先に行く大ガメの玄児とともに、美奈子を乗せた黒杉は海中をそのまま進み始めた。どうやら、溺れてないらしい自分に美奈子は安心して、銀鱗の竜の柔らかい鬣をギュッと掴んだ。  頬に当たる海水は少しの圧力も感じず、もちろん息苦しさなどない。振り返ると今出てきた建物がみるみる小さくなっていく。豪勢な洋館だ。色鮮やかなサンゴに囲まれて、極彩色の魚が周囲を取り巻いている。 「なんか、ど派手……」  その館のラブホテル張りの悪趣味な外観は、何も記憶に引っかからないが、手の中の鬣の感触は確かに懐かしいものだった。美奈子は前を向いて、玄児の巨大な尾びれと、先導するイワシの群れのような親衛隊に視線を向けた。  王妃の親衛隊だと教えられたが、何故王妃? 王ではなく?  美奈子の心の中の疑問に、竜の黒杉の声が応えた。掴んだ鬣から伝わってくる不思議な声だ。 「王妃は隣国の東海から私兵を連れて嫁いできました。彼らは竜王ではなく王妃の側です。王妃のことは覚えてますか?」 「ううん。全然」 「早く思い出した方がいいです。彼女は貴方に忘れられたことを許さないでしょう」 「え? それって」 「碧玉は陰険な女だ。腹の底が見えん。ああ、腹と言えば、あの腹はどうなんだろうな?」  いつの間にか玄児が傍に並んでいた。 「腹? どういうこと?」  美奈子が尋ねると、黒杉が重苦しい声で答えた 「王妃は懐妊してます。もう20年になりますが出産の兆しがありません。西海竜王は貴方との不義の子だと疑ってます」  美奈子は少しの間、黒杉の言っている意味が理解できずに固まっていた。やがて我に返って思わず叫んだ。 「うそっ! 20年?」  さすがに長すぎると、美奈子はそっちのほうに驚いた。 「竜宮での懐妊は何十年にもなります。時期が来たら、人間と同じように普通に出産します。ただ、その時期が……」 「時期?」  保健の授業で学んだ程度でも、さすがに40週の妊娠期間の常識くらいは知っている。だが、黒崎に教えられた竜宮での出産条件を聞いて、美奈子は複雑な気持ちで呟いた。 「二人の愛が試されるのね」  海中を疾走する一行は、やがて海面に向かって急上昇を始めた。徐々に周囲が明るくなってきて、やがて海面の光がまぶしいくらいに降り注いできた。 「上がりますよ。飛びます」 黒崎の忠告を受けて、美奈子は鬣を強く握りしめた。  鏡のような海面を抜ける時にはまったく水圧の存在はなく、激しい水しぶきは霧のように軽く体の周囲から散り去っていく。  眼下に遠ざかる海面を見下ろしながら、自分が全く濡れてないことが不思議だった。しかし、体中に感じる空気は確かに普通のものではない。この世界の空気には、人間的な匂いが皆無だ。不純物が一切無いとでも言おうか。  海面すれすれに王妃の親衛隊と、玄児の姿が見下ろせた。彼らは泳いで行くらしい。 「このまま逃げることも出来ますよ。どうしますか?」 黒崎が問いかけた。 「ん~。行った方がいい」  わざわざ、連れ戻すように玄児に頼んだのは自分(太郎)だから、理由を確かめたいと美奈子は思っていた。 「承知しました。竜王の居城は陸にあります。人型に戻らねばなりません。貴方は生身の人間だから、決して無茶はしないでください」 黒崎の淡々とした忠告を聞いて、ちょっぴり逃げたくはなったが……。  大広間の玉座に鎮座する西海竜王の隣には、王妃が座っている。高く髪を結いあげ、煌びやかな髪飾りを挿している。衣は薄緑や橙の淡く美しい色合いが施された簡素なもので、張り出した腹部に負担をかけぬよう、軽い布を合わせて纏われていた。  王妃の紅色の小さな唇は固く引き締められ、切れ長の瞳は伏せられており、眉間にしわを寄せている。  傍らの竜王は、豪華な刺繍の施された着物に、宝玉が簾のように施された冠を被っていた。苦し気な王妃の手をさすりながら、労わっている。彼は少女の姿の太郎に困惑の視線を向けながら言った。 「見ての通りだ。王妃は出産の兆しすらなく、20年以上も懐妊中だ。この頃は、苦しみも増している」  西海竜王の見た目は50歳~60歳ぐらいだ。王妃とはずいぶんな年の差婚なのだろうか。それにしても、不倫の疑いをかけている割には、王妃への態度は随分と丁重なものだ。 「どれだけ私が祝福しても産まれてこない。お前に心当たりあるなら釈明してもらおう」  竜宮での出産は、父親の祝福なしでは成り立たない。ただし、真の父親の祝福のみによる。それなしでは、何十年も懐妊のみ続き、やがて胎児は消えてしまうのだ。なんと男性優位の不公平な出産だろう。薄情な男の子供を懐妊した娘は、ひどく不幸なことだ。  そして、その薄情な男が、どうやら前世の自分で、目の前の妊婦が不幸な娘であるらしい。 「王妃様、おかわいそうに」 「なんとおいたわしい」 「浦島太郎め、不実なやつ!」  例の親衛隊共が、美奈子の背後にずらりと並び、口々に叫び始めた。頼みの玄児と黒崎は別室で留められている。美奈子は完全アウェイの状態だった。  アウェイと言えば、目の前の竜王はどうだろうか。何故かこの広間に居るのは王妃の親衛隊のみ。 『いいか、太郎。ここで西海竜王の頼りはお前だけだ』  別れ際の玄児の言葉が思い出された。そういえば、黒崎も自分が謀反を起こすはずはないと言っていた。太郎という男は、竜王の忠臣なのか?  美奈子は眼を閉じて、今しがた見た王妃の姿を脳裏に映すよう努めた。  急に眼を閉じた美奈子の様子を、竜王は不安そうに見つめた。どこかすがるような色がその瞳に浮かんでいるのは、玄児の言葉を裏付けている。  たった今見た王妃の苦し気な表情が霧散し、別の表情が浮かんでくる。妖艶な、誘惑の流し目で、しどけない姿を晒していた。これは太郎の記憶だ。どうやら、王妃との不義密通は事実だったらしいが、その目的は……。  その頃、確かに王妃は懐妊していた。ただ、その体内の小さな鼓動は……。これは竜王の血脈とは違う。この血の流れ方を知っている。仕組まれた無垢な命を利用しようとしている悪党に、憎しみを覚え、愛を信じた碧玉を哀れに思った。  そうだ、碧玉は本心から愛する男の子供を宿していた。その子を守るために、西海竜王の子を懐妊したと装い、その男の祝福を待っていたのだ。しかし、碧玉の愛する男は現れず、臨月が迫ってきていた。このまま夫である竜王の祝福を受けても出産しなければ、愛する人の子を守れない。何とか竜王の祝福を止めなければならない焦りが、碧玉にあったのだ。  美奈子は顔を挙げて、王妃をひたと見据えた。  可哀想な人。もう貴方の愛する人は来ない。そいつにとって貴方は用済みの失敗作だ。お腹の中の赤ちゃんの父親が本当は誰か、もう薄々気づいているでしょう? 貴方には王母としての相が現れている。  美奈子の視線を受けても、王妃は目線を伏せたままだ。美奈子は膨れた王妃の腹をひたと見据えた。西海竜王は美奈子の様子に不審を覚え、ややひそめた声で尋ねた。 「どうかしたか? 思い出したか?」  美奈子は視線を王妃に向けたまま答えた 「碧玉が王の子供を出産できないのは、王の祝福が無いせいだ」  自分の名を呼び捨てにされた王妃はびくりと身体を震わせた。西海竜王は小娘の姿をした、最強神通力を持つ男の横柄な言い草に眉をひそめた。 「お主、何を……」  西海竜王は怒鳴り返したが、美奈子にぎろりと視線を向けられて思わず言葉を詰まらせた。その視線はかつての太郎の眼光とは程遠い、少女らしい幼さの勝る憤怒が籠められたものだった。 「なんか、これって赤ちゃんが可哀想。お父さんに信じてもらえないなんて」  美奈子の言葉を聞いて、ここで初めて碧玉が反応した。 「やめよ! こやつ、どの口がほざくか! 衛兵! この小童切り捨てい!」  鬼の形相で叫ぶ妊婦に、大広間の空気は凍り付いた。もちろん美奈子も驚いて固まった。しかし、ここで素早く動いたのがなんと玉座の竜王だった。 「本当に、本当に我が子か?」  竜王はそう言って、左手を掲げた。その手の先から細かな赤い粒が噴射され、美奈子を中心に渦を巻いて取り囲んだ。赤くきらめく粒が手に当たってくっついた。よく見ると魚の鱗のようだ。美奈子は鱗の渦の中から竜王に向かって叫んだ。 「本気で祝福したらいい! すぐにわかる!」  赤い鱗に阻まれて王妃の衛兵が近寄れない。美奈子を守っているらしい鱗のバリアの隙間から、王妃がうずくまる様子が見えた。大広間の扉が開けられて、女官たちが駆け寄ってくる。  「陣痛が始まった。碧玉のやつ、年貢の納め時だな」  玄児の声が傍らから聞こえた。その途端、美奈子を取り巻いていた鱗のトルネードが霧散した。いつの間にか、黒崎も美奈子のもとに控えていた。 「太郎よ……」  竜王が弱々しく美奈子に呼びかけた。 「何故、余のもとから去ったのだ? 他にやりようもあったのではないか?」  先ほど、紅鱗の渦を放った主とは思えない、頼りなげな様子である。 「ごめんなさい。全部は思い出してないの……」  美奈子が竜王にそう言ったとき、宮殿全体が震えるような振動が響き渡った。 「うわああああ!」  碧玉の絶叫だ。 「猛獣の咆哮の如し。蕾のような唇からあのような雄たけびが出るとは、さすが東の女将軍だ」  玄児が呟いた。  黒崎が廊下に向かって問いかけた。 「女官、状況を」  入り口に控えていた女官が、隣室の様子を確認にいったん下がっていった。 美奈子も、茫然自失の様子であった竜王の手をとって引っ張った。 「ほら立って、出産のとき知らん顔してたら、絶対あとで恨まれるよ」  竜王ははっとした様子で、立ち上がり、碧玉の咆哮の響く方を見やった。隣室から戻った女官が駆け寄って跪いた。 「間もなくお誕生でございます」  女官が告げると同時に「おんぎゃー!」と赤ん坊の、ただし母親の咆哮にも劣らない大音量の鳴き声が響き渡った。 「すごい鳴き声だね。元気な赤ちゃんだよね。おめでとう王様」  美奈子が感動に目をキラキラさせて竜王に声をかけた。  竜王は潤んだ目で、美奈子を見返した。 「本当に、本当に我が子だったのだな。太郎よ、ありがたく思うぞ」 「何言ってんのよ~。そんなこと言ったら奥さんに怒られるよ」  広間の入り口から、別の女官が駆け込んできた 「王子様にございます。お妃さまともにお元気でございます」 「王妃様ばんざ~い!」  衛兵らが万歳を叫ぶのと、猛獣のような鳴き声の赤ん坊の大音量で、美奈子は耳が痛くなってきた。すると、急に鳴き声が静まり、衛兵の万歳も途絶え、広間が静まり返った。  竜王は、優雅に立ち上がり、美奈子に微笑みかけた 「どうやら、王妃は授乳に入ったようだ。これで一安心だな。お前の不義密通の疑いは帳消しとは言えぬが、長年の苦しみがこうして報われた。感謝する」  竜王は控えていた女官を従えて、産室に向かった。  ついていこうとする美奈子を、玄児が制した。 「碧玉の報復があるやも知れぬ」 「なんで?」  訝しむ美奈子に、黒崎も同感の意を伝えた。 「師匠、先刻の王妃の剣幕はただ事ではありません。まずは護身を」 「やっぱり不倫のせいかな? あたし、仕返しされるのかな?」  玄児が真顔で美奈子の鼻先に顔を近づけてきた。玄児の琥珀色の輝きを放つ髪が美奈子の額に零れ落ちて、淡い茶色の瞳からも琥珀色の輝きが美奈子の瞳に映りこむほどに迫ってきた。 「不倫ではなく、房中術だろう。王子の懐妊は碧玉にとって不本意だったはずだ。お前まさか……」  玄児が言い終わる前に、3人とも殺気を感じて身がまえた。  広間の出口に、一頭の巨大な虎が居た。姿は虎だが大きさは像を上回る図体だった。鮮やかな黄色と黒の虎模様の身体から赤色の炎が立ち上っている。同様の炎が両眼から噴き出していた。 「ひっ」  美奈子が息を飲んだ。 「しまった!」  黒崎が本体の竜に変化しようと全身に銀鱗を浮かせ始めると、閃光のような虎の突進で跳ね飛ばされた。虎は弾き飛ばした黒崎に目もくれずに踵を返し、美奈子に向かって牙をむき出し襲ってきた。 「師匠!」  黒崎の叫び声と、虎の動きが、急にゆっくりと動きを落とし、美奈子の眼前に不思議な動きをする手が現れた。その手は透明の巨大な重しを、空間に出現させ、怪物虎の全身を直撃して押さえ込んだ。 「うがー!」  その手の前に、進撃を阻まれた虎の咆哮が響き渡る  不思議な動きの手が、自分自身のものであると美奈子が遠のく意識で感じ始めたころ、聞き覚えのあるもう一つの咆哮が別室から響き渡った。 「おんぎゃー! おんぎゃー!」  途端に牙をむいていた虎の変化が解け、碧玉の痩身が床に崩れ落ちた。  すでに竜身に変化した黒崎が美奈子を掬いあげて後背に乗せ、碧玉を前足で押さえつけている。 「お、またおっぱいの時間だぞ」 玄児が苦笑しながら碧玉に告げた。少し同情を込めている。 「太郎……恨むぞ」  碧玉は泣きじゃくっていた。  無意識に印を切っていた美奈子が我に返り、眼下に黒崎の前足で踏みつけられている碧玉の姿に、自分の心が随分痛むことを自覚した。 「あの……王妃様? 大丈夫? ねえ、小燕、離してあげて」  美奈子の懇願に、黒崎は碧玉を離した。王妃は床につっぷしたままだった。  王妃は顔を挙げずにうめくように言った。 「私のあの子を、お前が亡きものにしたのだな」  碧玉の恨み言に、美奈子は再び自分の意識が遠のくのを感じたが、発した声は明瞭だった。 「恨め。私も命運は共にした」  美奈子が静かに告げた。黒崎の鬣を伝って床に降り、碧玉のもとに跪き、彼女の肩に手を置いた。 「は、やめてっ」  碧玉が悲痛な声を上げた。美奈子の手が青白い閃光を放ち、碧玉の全身が包まれる。 「そなたはすでに西海の王妃だ。母としてのみ生きよ」 「あ、私は……」  絶句した碧玉の身体から青白い光が徐々に引いていき、やがて消えた。広間には、毒気の抜けたような表情の碧玉と、産室からは空腹を訴える赤子の咆哮が響き渡っている。  碧玉はすっと立ち上がり、美奈子を一瞥して再び虎の姿に変化した。しかしその姿は先ほどの怪物じみた姿とは異なり。虎模様の美しく温かみのある毛並みに全身覆われて、乳房は豊満に膨れている。黒光りする瞳はただ潤んでおり、戦意は喪失していた。もう振り向かずに、母虎は広間を駆け出して行った。やがて、赤子の咆哮は止み、乳にありついた様子が伺えた。  竜族を出産すると、子育てに500年以上はかかる。母親はその間我が子から決して離れはしないのだ。  美奈子は、前世での自分が王妃の気に入りの愛人を演じていたことを思い出していた。  妖艶かつ不埒な王妃は、お気に入りの愛人を寝床に引き入れて、不義密通が夫の耳に入るように企んでいた。すでに王妃が懐妊していたことは、愛人としての太郎にはお見通しであったが。  出産の祝福を躊躇わせようとの策だろう。王妃の謀に気付かぬふりをして、竜王の配下の将軍は、房中術で王妃が竜王の跡継ぎのみを懐妊するよう謀ったのだ。  そう、碧玉は自身で気づかぬうちに2つの命を宿していた。一つはまぎれもなく竜王の子供。そして、もう一つの命は……。 「ああ、あたしの前世って、ひどい男だ~」  美奈子が自分の頭をがしがし掻き毟って叫んだ。玄児が尋ねた。 「片方の子は消したのか?」 「消した。別腹に転生させた」 「ああ、それがお前さんが転生した理由か。ごくろうさんだったな」  玄児は労わるように美奈子の肩に手を添えた。  「玄児、師匠が人間に転生した理由とはどういうことだ、師匠、思い出したのですか?」  黒崎の問いに、美奈子ははっと我に返った。彼は、竜身を解いて歩み寄ってきた。  玄児は豊満な胸の前で腕を組み、優美な唇の両端を吊り上げて黒崎に向かって言った。 「お前、女に体当たりされてふらふらではないか。座っておけばよいだろう」 黒崎は、白磁のような頬を真っ赤に染めて玄児を睨みつけた。深緑色の瞳が怒りで一瞬エメラルド色の光を放ったが、自省が勝り、すぐに目を伏せた。 「確かに、不覚を取った……面目ない」  一瞬でも美奈子を危険にさらした自覚のある黒崎は、苦々しく言った。 先刻、碧玉に弾き飛ばされた黒崎の視界の中で、美奈子の小さな体が琥珀色の光に包まれたと同時に、碧玉の変身が解けていくのが映った。あれは師匠の仙術だ。それでも危なかった……自分は未熟者だ。  美奈子が浦島の仙術を繰り出せたのは、傍らの玄児が碧玉の殺気を察知して、美奈子の体内にある例の魂手箱の蓋を開けたのだろう。そうだ、玄児はあの女虎が部屋に入る前に、美奈子に近づいて師匠の魂を一瞬開放した。 「あの、なんかあたしもふらふらするの」  美奈子もめまいを感じてへたりこみそうになるところを、駆け寄った黒崎に抱き上げられた。視界が暗転する直前、黒崎の纏う柔らかい薄緑色の衣に包まれ、すっかり安心し、そのまま意識を手放した。 「師匠!」  血の気の失せた美奈子の寝顔に、黒崎が動揺した声で呼びかけた。 「朱衛、静かに。そのまま寝かせておけ」  玄児が低い声で静かに告げながら、桜色の爪が輝く人差し指を、何か言いたげな黒崎の唇に押し付けた。 ー続くー
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