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水面から視線を上げると、時計塔がそびえ立っていた。時計を見てみるが、最後の陸を出てから40分も経ったらしい。船上は景色こそ綺麗だがそれだけで、面白みも何もあったもんじゃない。携帯電話の画面は既に圏外を伝え、ここが文明離れた地であることを教えてくれる。
年老いた船頭は汗を滴らせるが、しかし何も話さない。ただ、その寡黙さは気ままな一人旅には丁度良かった。ただ旅を楽しめるのもここまでで、ここからは仕事の領域だ。
やがて、島唯一であるらしい港が見えてきた。港と言っても原始的かつ簡易なもので、木で組まれた桟橋とボラードだけが、その場所を港たらしめている。私は忘れ物がないか、最終確認を行なった。文房具、衛星電話、手帳、薬、少々の金、その他諸々……好物の甘味を買い忘れたことは少し残念だが、必要なものは揃っている。というかそもそも、民俗学など紙とペン、この身一つあれば完結するようなものだが……と、鞄のファスナーを閉めたところで、船が揺れた。
「着いたぞい」
船頭がぼそりと言う。軽く礼を言い、運賃を置いて船を降りた。少し歩き後ろを見ると、船頭は昼寝を始めていた。帰る時まで寝ててくれればいいが、望むべくもないか。
ここはロストリコアと言い、端的に言えば巨大な湖に浮かぶただの島である。そこでは周辺諸国の戦争に巻き込まれ逃げ出した難民が生活し、文明から離れた営みをなしているらしい、のだが、噂の域を出ない。それは単に知名度の問題というのもあるが、そもそもその噂というのが信用できないのだ。数十年前の記録では、ここに来た画家が、ここは更地で人一人いなかったと話している。住人がいるという話は最近の話で、しかも人がいないという話の更に前にも住人の存在は確認されている。つまりは、この島は人がいたりいなかったりし、それどころか建物まで消え失せているということらしい……。ただし、どの記録にも時計塔はあると記述されている。
私はこの謎を解くために遥々やってきたという訳だ。
まあ思うに真相は、住民が旅人を追っ手かと思って隠れたか、あるいは祭りか何かで留守にしていただけだろう。建物が消えたのは……東洋に伝わるワンナイトキャッスルとかいうものの技術だろうか。とすればジパングのニンジャというものは何と恐ろしい存在か。……いるならむしろその姿を見てみたいところ。
さて……私は今、実際に現場に立っている訳だが、眼前には草原が広がり、土の固められた道の向こうには町並みも見える。人の行き交いもあり、もぬけの殻という訳ではなさそうだ。ただ何より目を惹くのは、やはりあの巨大な時計塔である。その姿は荘厳たるもので、石煉瓦の原始的な家とは違い装飾も見られる立派なものだ。天辺は見上げるほど高く、靄で薄く白んでいる。あれは、いやしかし、個々には誰もいないと話したらしい画家の絵には、あの時計塔はなかったはずだが……? 鞄から取り出した絵のコピーにも、島の形から同じ場所を見ているはずだが、そこに時計塔はない。新しく建ったということなのだろうか。こんな原始的な土木技術しかない人間が、あんなものを立派なものを? ふぅむ……。
町に向かってしばし歩いてみる。外部の人間が珍しいのだろうか、視線があちこちから向けられるが、人々の目に敵意はない。ただ町の雰囲気は暗いように感じる……。道行く住人のうち、女性の一人を捕まえて話しかけてみることにする。
あの。
「……私ですか? 何か?」
街の雰囲気が暗いようですが、何かあったんですか?
「……いえ、旅の人に話すようなことでは……」
いや、実は学者なんです。この辺のことを調べてまして。
「……そうなんですね。……実は、この街を纏めてた人が死んでしまいまして。後継人争いで町が分断してしまったんです。作物は売れなくなってしまったし、男性は時計塔の謎を解くとか言って、誰も働かなくなってしまって……」
時計塔の謎、とは? 宝でも眠っているんですか?
「……単なる噂話です。争いの種が生まれたとき、時計塔の謎を解くと救済が訪れる、って……」
救済?
「ええ。そんな都合の良いものがあったらいいんですけどね……。この町をどうにかしてくれるならって、縋りたい気持ちも分かりますが、そんな眉唾な噂よりも生活の方が大事でしょう?」
……お話ありがとうございます。大変興味深い話で……それはそうと、今夜泊まる場所ありますか?
「……泊まるところ、ですか? すみません、宿屋はないと思います。滅多に人が来ないもので……」
そうですか。空き地などは? 野宿でもいいんですが。
「そんな……良ければ、うちに泊まっていきますか? お夕食も、簡単なものしかお出しできませんが……」
……本当ですか? 是非。
この女性が、まあ良い人だった。家に着くなり温かいお茶を、夕飯時には手の凝った料理を馳走してくれた。ここの料理は移住民の故郷に由来するのか、近くの小国のものとよく似ている。その特徴は芋を主に食べることだが、まさか芋のクッキーがあんなに美味だとは! しかし、あの赤くて身が黄色く、芳醇な甘みを持つ芋は何というのだろう。土産として買って帰りたいところだが、今の状況では望むべくもないか。
そして、どうやら泊めてくれた女性は今は亡き町長の娘であるらしく、旧町長邸である彼女の家には歴史などが記された資料も多数置いてあった。この幸運を呼び寄せた私の幸運と彼女に感謝したいところだ。ただ、この町のことを知ってもなお、助けることは難しそうだ。この町の対立は、ありふれたものではあるが根深く、外の介入でどうにかなるような問題ではない。もし、隣国の助けがあったとして、戦火に焼かれるのが落ちというものだろう。現段階での解決策は、理性的な人間が町長の座に就くか、あるいはあの時計塔に縋るしかない、という訳か……しかし。
(これは、町長の……最初期の移住民の日記だろうか)
彼の記録によると、町の歴史は相当に浅いらしい。つまりは、町人が確認されなかった時期に、そもそも今の住人はここに住んではいなかったということだ。そして数十年を遡り、この島は彼らではない戦争難民の町があった。恐らく、その期間も短いもので、その更に前にはまた違う住民がいたことだろう。そう考えると、来る前に聞いた話とは矛盾しない。……ただそうなると、その住民は何らかの要因によりここを去った、あるいは滅びたということになる。建物も消えたとなれば恐らく後者。ともすればここの住民は、一定の周期で滅亡を繰り返している……?
問題は、その要因が何なのかということだ。資料によるとここは、人が来る前には更地の孤島だったらしいが、あの時計塔だけはそびえ立っていたらしい。誰もいない時期にはなかったあの時計塔が、今の住人が来た時点では建っていた。何か関係が……いや、ここまでくればないと考える方が難しいだろう。この町の男連中が追い求める時計塔の謎と救済が良いものならいいが。
……ここまでか。町が存在する前の資料があればよかったが、この島はそこまでの我儘を許してくれないらしい。次の一手は……やはり時計塔に行ってみないことには始まらないだろう。
今夜は寝ることにしよう……。
朝。この町は日を遮るものが少ないからか、光がよく差し目覚めがいい。いっそ住みつきたいくらいだが……いや、やめておこう。どうも胸騒ぎがする。ここに来てから動悸も酷くなった気が、いや気のせいか。塩分は控えることにしよう。
起きだし、彼女の姿を探してみたが、家の中にはいなかった。出かけているのだろうか。台所も綺麗に片付いていて、この家には誰もいなかったのではないかとすら思えてしまう。こちらも気のせいだといいが。とりあえず、置手紙に外出の旨を書き置き、家を出た。
町は相も変わらず重ったるい空気が漂っている。だが、昨日とはどこか違う様相を呈していた。説明が難しいが、皆が何か、未来にある希望を感じ取っているかのような、ある種の狂気と言うべきか、予感、それに類する何かしらのものが人々の目には灯っていた。普通なら歓迎すべきことなのだろうが、調べたことを考慮に入れれば、決して良いことではないだろう。本当は今すぐにでもここを出たいところだが、私の中の貪欲な知識の獣が、足を時計塔の方へ向けていた。
ひとまず歩いてはみたが、道は途中で断絶している。先を見ると時計塔の根本に船が付けられていた。あそこまでは地続きではなかったのか。ますます、どうやってあれを建てたのかと疑問になってくる。……そんなことより、船があればいいのだが。
周囲を探すと昨日の船頭が船の上で微睡んでいた。ここは港ではないが、私が時計塔に行くと分かっていたのだろうか。……いや、観光目的ならまず塔へ行くだろうな。
時計塔までと運賃を渡すと、何も言わずにオールを持ち上げた。顔は眠そうだが、足はしっかり船の揺れを捉え、船は力強く水に尾を引く。
……そうだ。船頭はいつからこの仕事を?
「……俺ぁ60年と少し」
一人で?
「ああ。その前には親父が。俺の家系が代々やってる」
親父さんはご存命?
「いんや、もうとっくに死んだよ。水死だ。俺の小さい頃にな。死体は見てないが、この湖で大きな津波が起きたからな」
津波、ね。
津波と来たか。いくら大きいとはいえ、海でもないただの湖に津波? このあたりは地震すら起きないのに……。
「着いたぞい」
気付けば時計塔の眼前。船を降りて振り向くと、また昼寝に入っていた。帰りまで待ってくれるらしい。これで帰り道の心配をせずに済む。まあ、帰るまでに生きていればいいが。
しかし……実際中に入り込んでもなお、違和感を拭い去れない。土と煉瓦の町並みの中に、突如としてビッグベンにも引けを取らないような時計塔がそびえている。ましてや水上に、だ。こんなものを建てる技術があの集落にあるだろうか? もはや宇宙人じみた技術力だ。
いや、違うな。階下へ向かう階段が水中に続いている。この時計塔は、湖がまだない頃に湖底に建てられたものらしい。……湖底に建っているなら、どうやってこの時計塔はまた現れた?
おっと、暗いな。確か懐中電灯が鞄の中に……いや、上着のポケットか。あったあった。
(……おっ?)
偶然照らされた歯車の影に人骨が挟まっていた。頭蓋はないが胸骨と衣服がある。コートの中に……野帳だ。中を見るに、こいつは同業者か。どうも水没したらしい。紙は乾いて中は読み取れるが、癖のある字体だ。というより、古い、か?
時計塔の謎が……解かれ……救済が……救済が何だって? ……なるほど、救済とはつまり。
「やっぱり、来られたんですね。学者さん……」
君は……町長の娘か。服が濡れている。……下から来たのか?
「早く逃げてください。あなたはこの町の人間ではありません」
……この地は。
いや、そんなことを言ってる場合じゃない。彼女が何者かはさておき、姿を見せたということはそろそろ始まるということだろう。さっさとここを出ることにしよう。
君もな。
「えっ? いや、私は……ひゃっ」
ぐ、重い。フィールドワーカーとはいえ上半身は貧弱に過ぎる……。
再び外に出ると、船頭はのほほんと船に寝転がっていた。まあ今のところ、来るべき危険の兆候も何もない。……否、頭上で時計の針が進む音と共に、内臓を揺らすほどの鐘の音が響き渡る。そろそろ頃合いなのだろうか。あまりの音に船頭も飛び起きた。脇に抱えた彼女を見て呆けているが、いやそんなことより。
出来るだけ、出来るだけ早く陸地へ向かってくれ。いや、島じゃなくて……とにかく島じゃない方へ!
未だ船頭は目を回しているが、手にあるオールは40年の重みを体現するように水を押し進んでいく。
湖の半ばを過ぎた頃、二度目の鐘の音が鳴った。同時に歯車の一つが塔から転げ落ち、大きく水柱を上げる。その余波が船を揺らし盛大にこけた。危うく船から落ちかけた彼女を船頭のオールが引き戻した。
陸地までは目測で100メートルほど。走ればすぐの距離なのだが水上という足枷が気を急かす。
そして、三度目の鐘が鳴った。
騒がしさが静まり、静寂が不気味な表情を作っている。振り向くと塔は宙に浮いていた。
いや違う。落ちているのだ。瓦解した円柱が水面を叩き、巨大な水の壁を作り出す。迫る壁が島を呑み込むさまを遠目に見た。あの様子では人間など一溜まりもないだろう。時計塔は、協力を忘れ争いに囚われた人間にこうして“救済”を与えてきたのか。戦争の長い歴史の間……。そして彼女は……そういや彼女は結局何者なんだ?
だが、化け物じみた物体とはいえ水を操る力はないだろう。現に津波は目の前に迫り、町人でない私たちすら呑み込もうとしている。船頭の父も、その先代をも殺した歴史のループが、もう3人を沈めようと迫ってきている。
だがもう少し、もう少しで――。
――、――――。
朝。変わらずの朝だ。目を開ければ見慣れた部屋と、出来れば目を背けたい書類の山が見える。
結果を言えば、私たちは助かった。波を被りながら岸に打ち上げられ、死人どころか溺れることすらなく生還出来たのは、彼女の力と言うべきなのだろうか?
この事件――あるいは事故なのか、天災と呼ぶべきか――の唯一の純粋な被害者たる船頭には、あの後仕事を紹介し、今は中心街での水路の渡しをすることになった。今でもたまに行き会うが、見ると大体船の上で昼寝をしている。ちゃんと仕事をしているのか疑わしくなるが、評判は上々のようである。
私と言えば、以前と変わらず民俗学者を続けている。ただ、あの町の結末を本に纏めようかとも思ったが、しなかった。彼女が反対したというのもあるが、何よりあの出来事が、人類にとっての自然の摂理のような、文明の新陳代謝のようなものに思えてならなかったのだ。
そして、町長の娘は――彼女はあの町の地縛霊のようなものであると語った――助手として雇うことにした。助けるつもりだったとはいえ、連れ出したのは私の責任ではあるし、何より彼女を目の届かない場所へやるのは何か……危険のような気がしたのだ。まあ、いくら治安が悪いからと言ってこの町を海に沈めることはないだろうが。
彼女は色々なことを語ってくれたが、あの町はどうなるのかと尋ねたときだけは言葉を濁した。最後には「あの島が必要になったら出ていく」と言って微笑み、ここ数日には食事を用意してくれたりもしたのだが……結局、彼女は消えた。あの島の周辺でまた戦争が起こったと新聞が伝えたのは、その数日後の話だった。
またしばらくすれば、あの島には町が出来るのだろう。そして、人々が隣人を軽んじ、争いの種が芽吹いたその時に、全てを洗い流す救済が訪れる。これまでも、これからも、あるいは戦争が根絶するその時まで。
そして時計塔よ、再び。
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