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こぽこぽこぽ・・・
手元で心地良い音を立て、コーヒーがネルドリップをつたって落ちていく。芳香な香りに包まれ、本当ならいつもは落ち着きがないと言われる砥部も心静かになるはずだった。しかし砥部はついつい窓際のテーブル席で、困り切った様子の小柄な青年の後ろ姿が気になっていた。
オフィスビルの1Fのカフェは水曜日の昼下がりだというのに盛況だった。このカフェの売りである、一杯一杯手で入れる本格派ドリップコーヒーが目当てなら嬉しいが、そうではない。
佐良という新しく入ったバイトのせいだ。
女の子のような名前だが、それは苗字、立派な男子大学生だ。しかし、カフェの制服である黒いワイシャツにぴったりと合ったさらさらの黒髪、窓から差し込む陽光で輝くほどの白い肌、伏せた長いまつげの下にはいつも潤んだような黒い瞳、そんな容姿の持ち主佐良には、男の砥部さえどきっとすることがある。
そんな佐良がこのカフェでバイトするようになり、窓辺の数少ないテーブル席は女性客に占拠されるようになった、というわけだ。
ここはこのビルに入っている食品輸入会社のアンテナショップなので、さほど売上にはうるさくない。何より持ち帰りがメインだから、テーブル席が埋まっていても困ることはない。だから、さほど問題ではないのだが、今日の客はいつもと違った。わざわざ佐良をテーブルに呼びつけ、スマホを何度も見せては話しかけている。連絡先を交換しようというのだろう。佐良はといえば、困り切った様子で黙ってトレイを握りしめている。
ああいう相手には少し不真面目なぐらいがちょうどいいんだけどな
砥部はコーヒーを入れながら思う。
実を言えば佐良は、砥部と同じ大学・同じ経営学部のひとつ年下の後輩だ。適当でいい加減と称される砥部と違って、佐良はおとなしく真面目だ。はじめて会った時もなかなか目を合わせてくれなかったのを覚えている。しかし今は一緒にご飯に行ったり、遊んだりする仲だ。
というのも、一見砥部とは正反対の佐良だが、話しだせば話題は豊富、意外にしっかりしていて、何より砥部が好きなコーヒーや料理に興味を示してくれ、経営を学び、いつか自分で選んだコーヒー豆を扱うカフェを開きたい、という夢も笑わないで聞いてくれた。
そんな佐良の中身がわかってからは、よく一緒に過ごすようになった。特に佐良もこのカフェでバイトするようになった最近は、お互いの家を行き来してコーヒーを入れる練習をしたり、料理を作り合ったりしている。そんな佐良を知っているからこそ、あの容姿のせいで面倒に巻き込まれるのを見ると、可哀想になる。
しっかたないな
砥部はコーヒーを入れ終えると、笑顔で客に手渡した。そしてトレイの上に試供品の小さなチョコレート2つを乗せ、テーブル席へ向かう。そのまま佐良と客の間に割り込む。
「こちらクリスマス限定チョコレートの試食になります、もしよろしければどうぞー」
突然の闖入者に客のひとりが砥部を睨む。しかし、もうひとりは慌てて顔を伏せた。見れば、つい最近まで砥部を追っかけていた客ではないか。
しょーもな
そう思いながらも砥部は既に空になり、乾き始めているコーヒーカップを手に取る。
「空いたカップお下げしますねー」
そう言いながら、砥部は佐良に行け!とばかりに目で指図する。佐良はすみませんというように頭を下げるとカウンターの奥に消えた。自分をおっかけていた客がもうひとりの客を引きずるようにして、カフェから出て行く。きっともう来ないだろう。
あーあ、またやっちまった・・・
しかし罪悪感はない。砥部はああいう客が嫌いだ。自分たちはコーヒーを売っているのであって、自分を売っているわけではない。テーブルを片付け他の客も落ち着いたところで、佐良の代わりなのか、店長の七見が後ろにひとつに結った髪を揺らしながら現れた。
「佐良くんどうしたの?なんだか落ち込んでいるように見えたけど」
砥部はおどけた様子で敬礼した。
「すいません、またナンパ撃退してしまいましたー」
すると七見が笑う。
「あー、やきもち焼いたのね」
「へ、そういうんじゃ」
砥部は思わず渋い顔になった。店長にはカフェをやりたいからこの店でバイトをしている、という話はしてある。別に女の子目当てじゃない。すると七見は大きく目を見開き、違う違うとばかりに手を横に振る。そして思いがけないことを言った。
「砥部くんってホント佐良くんのこと好きだなあって」
「は!?」
「大丈夫よ、佐良くんだって、意外としっかりしてるんだから」
「な・・・」
砥部は七見が何を言いたいのかわからない。しかし聞き返す前に客が入ってきた。七見が明るく声をかける。
「いらっしゃいませー」
七見は気づいていないように見えた。自分が砥部にとんでもない大型爆弾を投下したことを。
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