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アパートに帰ったときにはもう11時を過ぎていた。美浦はどさっと荷物を置くと、スーツ姿のまま冷蔵庫を開ける。中にはミネラルウォーターと牛乳、卵、フルーツのみ。その中からミネラルウォーターを取ると、コップに注ぎ、ごくごくと喉を鳴らして飲んだ。
これがビールなら本格的なおっさんだわ
美浦はひとり自嘲気味に笑った。実家は通勤圏内にあるが、今は会社になるべく近いアパートを借り暮らしている。人事部に移動してからは忙しく、家は寝に帰るだけの場所になってしまったからだ。せめてアルコールを家に置かないようにしているのは、完璧なおっさんになりたくないという最後の抵抗かもしれない。
ふと美浦は修輔の茶色い丸い瞳を思い出した。
目線同じだったなあ……
なんとなく気持ちが沈む。バスケをやっていたときは、もっと背が高くなりたかった。ただバスケをやめた今は、身長のせいで気後れするようになった。勝ち気な性格だから、たとえ他の男性社員より背が高くなろうとヒールを履き、背筋も伸ばして歩いている。それなのに、今は修輔の目線が気になる。理由はわかっていた。イヤホンからこぼれていたあの旋律だ。
なぜあの曲を聞いていたのだろう……
美浦はスマホを手に取ると、ミュージックアプリを開いた。そしてあのイヤホンから聴こえた曲を検索する。たくさんのバージョンがある。記憶を辿り、弦楽器で演奏されたものを選ぶ。途端に、心地よい旋律がこぼれ落ちた。
パッヘルベルのカノン
有名なクラシックだ。美浦はベッドに横になり、懐かしい旋律に身を委ねた。
バスケをやっていたとき、試合を組み立てる司令塔でもあるポイントガードというポジションだった美浦は、試合前に高揚する曲を聞くのが苦手だった。もっと落ち着ける冷静になれる曲をと探していたとき、メンタルトレーナーが勧めているのを読み、クラシックを聞くようになった。その中で一番気に入っていたのがこの曲だ。ふと脳裏にイヤホンをした修輔の姿が思い出される。
雑音の多い会社の中で彼なりに落ち着くためにこの曲を聞いていたのかもしれない……
そう思うと、修輔の見方が変わる。
少しでも楽にしてあげたい……
そう思った途端、胸がつんとする。美浦は首を振り、ひとりつぶやいた。
「仕事はポイントガードと同じ。どこにパスしてどうまとめるか。それだけでしょ」
それが本心からなのか、今の美浦にはわからなかった。
*
1週間後の水曜日の夜、美浦は同じようにIT管理課にいた。今日もNO残業デー、フロアには修輔と美浦しかいない。
「どこが気に入らないんですかね」
赤字の入ったプリントを手にため息をつく修輔の言葉に、美浦はうなずくしかなかった。これで3度めのダメ出しだ。それも重箱の隅を突くような指摘で、正直、美浦も課長が何を求めているのかわからない。
「やっぱり俺じゃ無理なのかなあ」
そういうと、修輔は目を伏せた。確かに2年目で新人研修を担当するのは大変だ。しかし、彼を押したのはIT管理課でインストラクションやサポート業務の中心にいる山口佐恵子だったはずだ。自分よりひとつ年上とは思えないほど可愛らしいひとで、同じ名字の修輔がいることもあり、皆、親しみを込めて佐恵子さんと呼ぶ。しかし年齢なりにしっかりしたひとでもある。美浦はつい修輔の肩をぽんと叩く。
「あの佐恵子さんが大丈夫って言ったんでしょ、なら大丈夫」
彼女がいうなら大丈夫というのも変だが、美浦は彼女のひとを見る目を信頼していた。
「それに山口くんには一聞けば十理解するだけの賢さがあるし、ものごとを論理立てて説明するだけの能力もある」
修輔が驚いたようにまた美浦をあの茶色い丸い瞳で見つめる。美浦はつい恥ずかしくて目をそらす。しかし口にした事はこの1週間、修輔の仕事ぶりを見ての本心だ。美浦だって、人事部所属3年、ひとを見る目はあるつもりだ。ただ修輔は見た目でだいぶ損をしている。若手社員から見ればイケメン社員だろうが、長い髪や天然とはいえ茶色がかった髪に厳しいひとがいるのも確かだ。IT管理課では許されているのかもしれないが、イヤホンや肩肘も気にするひとはいるだろう。美浦は冗談めかして言った。
「何より課長のこんな嫌がらせに近い指摘に真摯に対応してるんだから、我慢強さも私が保証する」
修輔がぷっと吹き出す。美浦も笑う。しかしそこで美浦は自分が言った言葉の意味に気づいた。慌てて美浦は修輔に聞く。
「ねえ、前回までの担当って佐恵子さん?」
「はい」
そう答えると、修輔が悔しそうに続けた。
「課長には早く別の山口に変われって言われました」
美浦は目を見開く。
まさかそんな簡単なことだったなんて……
美浦は修輔に向かってついバスケ用語を使っていた。
「やっとどこにパスを出すべきかわかった」
目を丸くする修輔に、美浦はにっと笑った。
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