#01 水槽のある部屋

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#01 水槽のある部屋

 僕は恋をしていた。  夏の終わりの公園で彼女と出会って、満開の桜の下で“さよなら”をするまでの七ヶ月間の片想いだった。  平均寿命が八十才の長寿国日本では、僕の七ヶ月なんて瞬きの間に終わってしまうような小さな出来事かもしれない。けれど、胸がつぶれるかと思うぐらいに人を好きになって、枯れるほどに涙を流したことは人生で初めてのことだった。だから僕の前を過ぎていこうとしているこの夏と同じように、彼女が遠く遠く、確実に離れていくことを、僕は恐れてはいけないと思っている。  彼女に出会う少し前のことから話そう。  正確には、秋夫と出会ったはなしだ。     + +  僕の部屋には年代モノの大きなアクリル水槽がある。元々は伯父さんの家にあったものだが、僕が大学生になり損ねた春になぜか譲り受けることになった。値段も価値も分からない子供の頃の僕が欲しがり、伯父さんがうっかり『洵が大人になったらあげるよ』と約束をしてしまったと言うのだが、僕には覚えがなかった。だけどもし僕が欲しいと口を滑らせたのだとしたらそれは、熱帯魚というよりも海いろのバックスクリーンに珊瑚や水草や流木が揺れて見える幻想的な水景が好きだったのだと思う。夕方か早朝か分からない質感の、音のない青の空間は静謐で無口だから、今と同じに内向的な子供の頃の僕もほっとできたんだろう。  伯父さんは時々、餌や新しい熱帯魚を持って来て、ついでに水槽の掃除もしていく。  なんだか悪いね、と僕が言うと、伯父さんは、たまには洵も掃除しろよ、眺めてばかりじゃなく、と緊張感なく文句を言う。いつもの他愛ないやりとりだ。けれどそんなことを数年繰り返したら、どんなに鈍感な人間でも気付く。伯父さんは僕を見守るために水槽をこの部屋に運んできたってことに。単身赴任で盆と正月しか家に戻ってこない父さんの代わりに、僕の話し相手でいるために。  近所に住んでいる伯父さん家族には子供の頃から随分世話になってきた。だからといって不甲斐ないことになってしまった僕に伯父さんが責任を感じる必要は露ほどもないのに、父さんから「洵をよろしく」と頼まれて、気楽に「はいよ」と請け負ってしまった過去が伯父さんの足枷になったのだ。貧乏くじにもほどがある。 「最近はなんの映画を観たんだ?」  伯父さんは水槽の掃除をしながら聞いてくる。 「メグ・ライアン主演の映画だよ」  僕は答える。 「90年代にロングランヒットしたんだって」  結婚のパーティで花嫁と老人が入れ替わるというシュールなファンタジーだ。「知ってる?」  タイトルを口にすると伯父さんは鼻を鳴らした。 「もちろんそのぐらいは知ってるさ。俺の若い頃に流行ってた。映画は観てないけどな」 「ははは」  伯父さんは映画に興味がない。だけどこうしていつも、何の映画を観たのかと聞いてくる。僕は快く、素直に感想を語る。それが唯一僕が伯父さんに出来ることで、僕が生きていることを証明する儀式だからだ。 「また教えてくれよ」 「もちろん」  映画を借りるためには外へ出なければならない。それすらなくなったら僕は世界を必要としなくなるだろう。あきらめに飲み込まれているくせに、僕はそのことを怖いと感じていた。  そんな日常を何年も過ごしていたあの日、秋夫に出会った。
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