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瀬尾さんが声を落とした。
「実は、その手術がね」
それでも白杖の高感度マイクはきっと拾っているはずだ。
「すごい費用が掛かるのね。だから私言ってたの。手術なんてしなくていいって、見えないままでいいって。なのに急にお金はあるから気にしないで手術しなさいって。お姉ちゃん、私のために無理したんじゃないかなあ」
「……」
きっとその通りなんだろう。
得体の知れない僕たちから妹を遠ざけようとしたことを思えば容易に想像がつく。お姉さんは瀬尾さんのことを、きっと何よりも第一に考えている。
「だからお姉ちゃんのために手術を受けようと思うの。私がお姉ちゃんの負担になってるのは事実だし、だったら目を治して自立するしかないんだよね。このままでいいなんて、それは私の我侭なんだよね」
自分に言い聞かせるように、瀬尾さんは言葉を足元の地面に落とした。僕はそれを見ながら、泣きたい気持ちを押し込んで言った。
「――瀬尾さん、頑張って。きっとうまくいくよ」
瀬尾さんがゆっくり顔を僕の方に向ける。
「見えるようになって、お姉さんを喜ばせてあげよう」
「お姉ちゃんを?」
「そうだよ、瀬尾さんのためにお金を貯めてくれたんでしょう。それを無駄にしちゃいけない。今のままでいいなんて、思っちゃだめだ」
――今のままでいいなんて、思っちゃだめだ。
それは僕自身へ向かってくる言葉だ。
瀬尾さんの幸せを願えない男なんて、瀬尾さんを好きでいる資格もない。
「そうだ! 見えるようになったら一番先に何が見たい?」
勝手に流れてきた涙を指の先で乱暴に拭いながら、明るい声で叫ぶように言った。瀬尾さんの頬から少しずつ不安が消えていく。
「そうだなあ、えっと映画を観る。洵くんに教えてもらった映画を全部観る!」
「うん。それから?」
「それからね、絵を描く」
「いいね。それから?」
「ベッドカバーを作る!」
「ベッドカバー?」
「そう。目が見えているとき作ってたみたいなの。ダンボールの中に中途半端なまま入ってるんだって。お姉ちゃんが教えてくれた。だからそれを作る」
「うん」
「あとは」
「あとは?」
「向日葵畑に行く」
瀬尾さんが虚空に向かってハッとするような大人びた顔をした。僕は性懲りもなくその横顔に見惚れた。
「真夏の太陽に背伸びするみたいな一面の向日葵。青い空にわたあめみたいな雲、鮮やかな黄色、みつばちが飛んでる。――遠くに、蝉の鳴き声」
「……瀬尾さん? 大丈夫?」
思わず、引き戻すように声を掛けた。ぼんやりする瀬尾さんが、隣にいるのに遠くへ行ってしまった気がした。
「え? なに?」
にこり、とする瀬尾さんはすぐに話しを再開する。
「それからね」
「うん」
戻ってきてくれた瀬尾さんに、僕は不安を隠して相槌を打った。
瀬尾さんの目が治ったら、その隣には僕がいる。
それだけを必死に、自分自身に言い聞かせた。
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