#10 彼女に見えた世界

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    +  +  受付で瀬尾さんの病棟の階を聞いてエレベーターに乗った。病院の中は空調が壊れているんじゃないかと思うくらいに温度が高かった。秋夫も着ていた服を一枚脱いで手に持ったから、僕が緊張のせいで汗をかいているわけではないと知ることができて、少しほっとする。  エレベーターのドアが開いてすぐ、僕たちは運悪く美佳さんにみつかった。美佳さんは目の前の長椅子で誰かと談笑していた。 「やっぱり来たのね」  会釈した。前回とは違い美佳さんの表情は明るい。手術が無事に成功したことを意味している。 「園子に会いに来たんでしょう、会ってきたら?」 「……いいんですか?」 「どうぞどうぞ」  美佳さんの思惑が手に取るように分かった。  怯んだ僕の背中を秋夫が押した。 「……」  もう覚悟は決めたのに、やっぱり僕はどうしようもなく弱い。瀬尾さんが僕をどう思うか、それにばかりに意識が向かってしまう。もたもたしていると、ナースステーションから白衣の医師が数人出てきた。美佳さんの表情がパッと変わった。 「――先生、さきほどは失礼しました」  美佳さんが駆け寄った。 「どうですか、妹さんは落ち着かれましたか」 「きっと急に見えたことで動揺したのかもしれません。ひとりにしてほしいと言われたので今、その通りに」  美佳さんと主治医だろう医師との会話を聞きながら、僕と秋夫はそっと目配せをした。瀬尾さんが動揺?  「ではもう一度診察をしましょう」 「よろしくお願いします」  医師を先頭に美佳さんが後に続いた。僕たちもなんとなくついていく格好になった。  ドアが開き、僕たちも中へ入った。静かな個室には眩しいくらいの秋の太陽が降り注いでいる。瀬尾さんは上半身を起こして窓の外を見ていた。僕たちに気づきゆっくりと振り返る。 「瀬尾園子さん、体調はどうですか」  医師が優しく問いかけると瀬尾さんは正面を向いて頭を下げた。大丈夫です、と小さな声が言った。 「もう一度、さっきの続きからしますよ」  瀬尾さんはぎゅっと目を閉じた。 「瀬尾さん、目を開けてください。怖がらないで、ゆっくりでいいですから」 「……」  瀬尾さんの目にライトを当てながら医師が診察を繰り返す。最後に瀬尾さんの前に指を二本翳した。 「これは何本ですか?」  瀬尾さんは眉間を寄せて再びぎゅっと目を閉じた。震えるように唇が開く。 「二、本」  不安そうに見守っていた美佳さんが思わず安堵の溜息を漏らした。 「先生! ありがとうございました。手術は成功ですね」  瀬尾さんを抱きしめて美佳さんは何度も医師に頭を下げた。 「……お姉ちゃん」  美佳さんの腕の中で瀬尾さんが苦しげな声を漏らした。 「ごめんなさい、見えるけどでもすごく疲れるの……。だから休んでも、いいかな?」 「そうだよね、ごめんね。お姉ちゃん、嬉しくてつい。さあ、横になって」  美佳さんが腕を解くと瀬尾さんはベッドの中に小さく沈み、上掛けをすっぽりと被ってしまった。  ――僕は、声を掛けられずにいた。  せっかく持ってきたお見舞いの花束も美味しいケーキも宙ぶらりんで、僕自身についても、どう扱ったらいいのか分からなくなった。  瀬尾さんは確かに僕を見た。みんなと一緒に病室へ入ってきた瞬間、僕に視線を向けた。けれど僕には関心を示してくれなかった。 「お姉さん、ちょっとよろしいですか」  医師が美佳さんを伴って病室を出て行った。個室には僕と秋夫と、そして瀬尾さんだけになった。 「……」 「……」  部屋の中を見回した。花瓶には色鮮やかな花が咲いている。僕が持ってきた花は出番がないかもしれない。ケーキをテーブルの上に置いた。静かに置いたつもりだったが小さな音が立ってしまった。瀬尾さんがそれに反応した。 「誰かいるの?」  布団を被ったまま瀬尾さんが言う。僕は素直に謝った。 「ごめん、僕と秋夫がまだ部屋に……。今、出て行くから」 「……」 「ケーキ、ここに置くね。あとでお姉さんと一緒に食べてね」 「……」 「……えっと、また来るから」  瀬尾さんからの返事がないことが僕を打ちのめしていた。見えるようになった瀬尾さんには、もはや僕は必要のない人間なんだろうか。――涙が出そうになる。 「……行こう」  秋夫に小声で促した。だが次の瞬間、秋夫は大股で瀬尾さんに向かっていった。 「秋夫?」  静止もままならなかった。秋夫は瀬尾さんの布団を剥がした。 「園子、起きろ」  瀬尾さんがのろりと身を起こした。その肩を秋夫の両手が掴んだ。 「おまえ、見えてねぇだろ」 「!」  急に視界が狭まった。僕の目の前に無彩色の影が、不安とともに迫ってきた。
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