#01 水槽のある部屋

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 秋夫との出会いは駅のそばにあるレンタルショップだった。  そういえば見知った店員の姿が一人消えたな、と意識したのは表の窓ガラスに求人広告が張り出され――、ほどなく秋夫が店に入ってきた時だった。秋夫の手には剥がした紙が握られていた。  僕の目の前で秋夫は店内を見回して、一番風貌が厳つい偉そうな男性店員に向かって歩いていった。その人は店長じゃないんだけどな、と僕は心の中でお節介を焼いた。店長は秋夫が素通りした入り口で観葉植物に水をやっていた背の小さな眼鏡を掛けた男だ。おそろしく素早い小回りで万引き犯を捕まえる技を持っている。見た目に騙されちゃいけない。  案の定、秋夫はものすごくばつの悪そうな顔で店内を引き返して、身を起こした店長にぼそぼそと何か言った。内容は聞こえないけれど、たぶん雇ってほしいと頼んでいるのだろう。心なしか冷たい対応の店長に促され、秋夫は『staff only』と書かれたドアの中へと消えていった。  借りたDVDを手に店を出ると、すぐ先の路地に僕より一足先に面接を終えた秋夫が立っていた。通り過ぎるとき、秋夫がちら、と僕を見た。僕もちら、と見返した。 「――まいど」  秋夫が口を開いた。 「え?」  僕はちょっと大袈裟に声を発していた。だって本当に意外だったから。 「ご、ごめんなさい」  慌てて謝った。口の端も無駄に引き上げたりして。 「僕、客だから、ね、そうですよ、ね」  自分でもすごい媚ようだな、とうんざりしつつも逃げ腰で言った。 「め、面接、うまくいってよかったです、ね。じゃ、じゃあ」  僕の中の危険信号が激しく点滅していた。なぜなら秋夫は僕の日常には絶対にいないタイプだった。鋭い目つき、への字に曲がった唇、武骨なデザインのピアス、太い首、甘さのないウルフカット、シャツで隠れている腕も肩も引き締まっていて――なにより全身から放たれる冷気みたいなものに圧倒されてしまう。 「あんた何してる人?」  秋夫が唐突に聞いてきた。 「歩いて来てるってことは近所に住んでんの?」 「え」 「ひとり暮らし?」  質問の理由が分からない。仕方なく、うん、とかううん、とか答えていると突然、ぐいっと胸倉を掴まれた。 「さっき店で、俺が店長を間違えたとこ見てたよな」 「!」  強い目力にパニックが起きる。体中の血が脳天めがけて駆け上がった。 「笑っただろう」  笑った? 僕が? いつ?!  誤解だとばかりにぶるぶると左右に強く、何度も首を振った。秋夫の指に力が入る。殴られるのか? なんて理不尽なんだ!  つま先立ちのまま咄嗟に目をつぶった。が、気がつくと押し戻されていた。  突然解放された胸元を左手で摩りながら恐々と秋夫を見た。その口元には不敵な笑みが広がっていた。秋夫はおもむろに両手を広げた。譲歩だと言わんばかりに唇が開く。 「あんたの家、行ってもいいよな」 「!」  そのときの僕の衝撃をどう表現したらいいだろう。  驚愕と絶望と動揺と焦燥と。もちろん一番は恐怖だった。  脅し同然で秋夫を招き入れることになった家の中は、間の悪いことに皆留守だった。母さんは父さんの単身赴任先へ数日泊まると朝出て行ったばかりだし、それを待っていた大学生の弟、俊哉(としや)は母さんを見送ったその足で、僕にアリバイを頼んで彼女のアパートへ遊びに行ってしまった。きっと母さんが帰ってくる日まで戻ってこない。 「なんつーか、へんな部屋だな」  僕の部屋に入った秋夫の第一声は、真っ直ぐに水槽に向かって放たれた。
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