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気がつくと僕は自分の上着を手繰り寄せていた。病院内の空調温度が下がったのかと思ったけれどそうじゃなかった。エレベーターから降りた人たちの顔は相変わらず上気している。
「園子にはつきあっている男がいた」
美佳さんの尖った声が空気に刺さっている。
「その男が犯人だと私は思ってる。園子はそれを見たんじゃないかと。だからショックで記憶を失くした」
「なんで男がいたと断言できる?」
美佳さんは秋夫に向かって答えた。
「お母さんからこっそり聞いてた。だから間違いない」
あ……、
思い当たり、僕は口元を押さえた。―――瀬尾さんの隣で映画を見ていた男、“コウちゃん”だ。
「園子がこんなことになったのに、当時つきあっていた男は一度も園子の前に現れてない。それがなにを意味するのか、答えはひとつよ! ……だけど、その男にどうしても辿りつけない」
「どういうことですか?」
恐ろしい気持ちで口にした。
でも聞いてから気づく。わかりきったことだった。
家は焼けてしまったのだ。瀬尾さんがもしも手帳やメモに記録していたとしても、すべては消えてしまった。携帯もパソコンも写真も、瀬尾さんのものは思い出ごとすべて燃えてしまったのだ。そして瀬尾さんの記憶も。
「もちろん園子の友達にも聞いて回った。だけど誰も、園子がつきあっていた男のことを知らない。――――探して」
美佳さんの目が真っ直ぐに僕たちに向かってきた。
「探してくれたら、もう園子とつきあうことを反対しないわ」
僕の体にびりびりと何かが走った。と同時に、脳裏では瀬尾さんとの日々が切れ切れに流れていった。目が見えなくても瀬尾さんはキラキラした可愛い女の子だ。僕は全然、それでも構わない。僕が瀬尾さんの手足になってずっと、この先もずっとそばにいればいいんだから。だからこのまま―――
「記憶が戻れば、瀬尾さんの目は見えるようになるんですよね?」
気持ちとは裏腹に、僕は情けない表情を晒して美佳さんに詰め寄っていた。
「そうしたら瀬尾さんは、幸せなんですよね?」
幸せか、どうか……
それは僕には判断できない。思い出したくないから記憶に鍵を掛けて自ら『見ない』ことを選んだ。ならばこのまま―――
「そうよ。どんなにつらくても残酷でも、園子には思い出してほしい。現実を生きてほしい」
「……」
僕はぐっと目を閉じた。
美佳さんは正しい。
瀬尾さんは今、現実を生きていない。
それは瀬尾さんにとって、幸せとは言えないんだ。
「わかった」
低く強い声が、僕の横から美佳さんへと伸びた。
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