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「(もう少し待っててください)」
日野さんの唇が声を出さずに動いた。
日野さんはバイト中だった。シネマズの売店でポップコーンやドリンクを売っていた。
しばらくして、日野さんは十分間の休憩をもらって僕たちの元へやってきた。背格好や雰囲気は瀬尾さんととても似ていたが、表情があまりない人だった。
「園子、元気ですか? なにかあったんですか?」
日野さんは見上げるようにして僕たちを交互に見た。それには答えず、秋夫が逆に質問した。
「あんたは園子と会ってないのか?」
日野さんの顔が曇った。
「もう一年以上会ってないです」
「なんで?」
「園子のお姉さんからたのまれました」
日野さんは畳みかけるように続けた。
「園子は記憶が途切れているせいか、昔の知り合いに会うと混乱するらしいです。私たちが会いに行けば、園子は笑ってくれます。私たちも注意して、園子が失った記憶を避けて思い出を話しています。だからちゃんと会話も弾みます。でも私たちが帰った後、園子はひどく落ち込むらしいんです。二日も三日も口をきけなくなるって。夜はうなされたり、泣いたり、情緒が不安定になって可哀想で見ていられなくなるって。だから私たちは、園子の記憶が戻るまで会いに行かないと決めました」
そうだったんだ……
感傷的になる僕の横で秋夫が強い口調を向けた。
「けど、あんたは園子の一番の友達だったんだよな」
「はい」
「園子がどんなやつとつきあってたかぐらいは知ってんだろ」
日野さんは地面に視線を落とした。
「何度も考えました。お姉さんからも聞かれたしでも……、当時の園子から好きな人がいるなんてひとことも……。ましてや恋人がいたなんて。私たちは女子高だったけどカレシがいる友達のほうが多かったし、隠す必要なんてなかったから」
「わかった。サンキュ」
唐突に秋夫が話を終わらせた。え、と思う僕に腕の時計を顎の先で教える。それで気づいた。もうすぐ日野さんの休憩時間の十分が終わるのだと。
「どんな些細なことでもいい、なにか思いだしたらこいつの携帯に掛けてほしい」
会釈で身を返した日野さんに秋夫が言った。日野さんは首だけで振り返り秋夫をじっと見て、それから小さく、はい、と答えた。
「よし、次」
日野さんを見送るとすぐ、秋夫が僕を急かした。
「ちょ、ちょっと待って」
僕は次に◎が付いた本間朱里さんの番号を押した。
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