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#16 封印された記憶
恭二くんと対峙したその足で、ふたりで瀬尾さんが入院している病院へ向かった。頬に当たる風が冷たくてやや猫背になって歩く。電車に乗ってからはぽつぽつと言葉を交わした。
美佳さんは恭二くんに浴びせた言葉の分、疲弊していた。それでも、恭二くんが犯人だなんてほんとうは信じたくないんだよ、というようなことを言葉を変えてひとりごとのように言い続けていて、僕は美佳さんのそれに対して、そうですよね、とか、わかります、とか、当たり障りのない慰めの言葉しか掛けられなかった。
病院では瀬尾さんの病室へ向かう前に新しい担当医になったという心療内科医の元へ行った。部外者である僕が同席するに当たって美佳さんは僕を『身内』と紹介した。便宜上嘘をついたことは百も承知で僕は――、こんな状況下にいるというのに喜びが沸き上がり、そんな自分をものすごく恥じた。
*
「――――退院、ですか」
美佳さんは僕の横で重い吐息を落とした。
診察室はとても静かで、溜息も小声も簡単に拾ってしまう。
「あの、先生、このまま退院したら今までと同じでは……」
「妹さんの場合は目が見えずともこれまで普通に生活してきましたし、通院で十分ですよ」
「それは、そうでしょうけど」
美佳さんは焦りを滲ませて僕を見た。
もっと特別な、有効な治療をしてほしい――。美佳さんの訴えたいことは伝わっているはずだが、医師は静かな笑みを浮かべたままだった。
「記憶が戻るために僕たちにできることを教えてください」
僕は使命感に突き動かされて口を開いた。
「そうですね、まず園子さんの場合は解離性健忘のより難しい症状だと言うことは間違いありません。記憶すべてを忘れているわけではなく、思い出さないことで自分自身を保っているのです。目が見えないということも同じです。見えないことがむしろ園子さんを守っている。それを踏まえて治療する必要があります」
医師は終始穏やかだった。僕の主治医がそうであるように、心療内科医というのはそう教育されているのかもしれない。
「ですので、焦らず、これまで同様に過ごしてください。それが遠回りに思えても最短の治療です」
「……」
納得はできないが白衣の威厳に負けて、僕たちは口を噤んだ。
「退院って、どうしよう」
廊下に出ると美佳さんは両手で顔を覆った。
「恭二くんのことですよね」
美佳さんはこくりと頷いた。
「あのアパートに園子を連れて戻れない。私が働きに出ているあいだ園子はひとりになる」
「わかってます。そんな危険なこと、僕だってさせられない」
記憶を封印している瀬尾さんは、これまでと同じに恭二くんを頼りにするだろう。自分を守ってくれると信じて、監視の意味を持つ白杖を片時も離さないだろう。恭二くんに依存すればするほど瀬尾さんは――――
僕ははっとした。
「瀬尾さんの記憶障害は恭二くんのそばにいるからじゃないでしょうか」
危険人物に見張られていることで潜在的に強い圧力が掛かり、瀬尾さんは思い出すことを拒んでいる、とは考えられないだろうか。
「……そうかもしれない。でも私、働かなきゃいけない。借金が、あるの」
「もしかして瀬尾さんの手術費用の、ですか?」
「一生懸命貯めたけど足りなくてお金を借りたの、だから」
「あの、……僕の家で、瀬尾さんをあずからせてもらえませんか」
喉が干乾びたようにざらついている。
「僕の家なら親もいますし安全です。僕を、信用してください」
なんて大胆なことを言ってるんだろうと思いながら、僕は必死に美佳さんを説得しようとしていた。
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